眠り姫、猛き君。




 その日、伊波飛鳥はものすごく珍しい物を見た。ものすごく珍しい物を。





 いつも平和な二年伍組は、なんだかものすごく緊張感に包まれていた。

 その緊張の中心には、可愛らしい寝顔を浮べた少女がいる。整った顔はどこかあどけなく見え、普段の凛とした成りは潜んでいる。教科書を机に開き肘を突いて口元を覆うようにして頭を揺らしている。微笑ましい光景ですらあるのに、皆我が目を疑っていた。

「……紫上結奈、だよな」

「……結奈はん、やな」

 伊波は思わず口に出してまで確認し、御神もそれに答えた。

 寝ているだけなら、別にここまで驚きはすまい。重要なのは今が授業中であるということである。

 あの紫上結奈が。あの! 紫上結奈が。

 本来指導すべき立場の石見すら呆然とその姿を見つめていて、教室に誰一人喋る者無く、水を打ったような静けさの中で少女の穏やかな寝息だけが響く。

「結奈、ねぇ、結奈。やばいって」

 その中で一人空気の読めない女、伽月が小声で囁く。親切心からなのは誰一人として疑っていないが、教官が凝視している中でそのフォローにいかほどの価値があろう。

 それでも空気が流れ出すよい一端にはなった。石見が少し心配げに近寄って話しかける。

「紫上さん。紫上さん? 大丈夫ですか?」

 反応が無い。

「紫上さん?」

 カクンと頭が落ちた。

「…………!!」

 クラス内に驚愕が走る。カクンっていった。今紫上結奈なのにカクンっていった。

 クラスの中に妙な一体感が生まれていた。

「紫上さん」

 石見が軽く肩をゆすった。

「……ん」

 小さな声。結奈は小さく瞼を震わせ二三度瞬きした。覚醒しきれぬ目でゆるりと教室の中を見回し現状把握。

「え、あ……!!」

 唐突に把握できたのだろう。動揺して慌てて立ち上がろうとした。が。

「……っ」

「紫上……!」

 伊波が思わず叫ぶ。立ちくらみでも起きたのだろう、膝から力が抜け床に崩れた。

「す、すいません。私、寝るなんて……」

 まだ動揺しているのだろう。崩れ落ちたことよりも居眠りしたことへの謝罪を述べた。

「大丈夫? 結奈」

「え、えぇ、平気です。ごめんなさい」

 伽月の心配そうな声に笑顔を返しつつ立とうとした。

「……あれ?」

 しかし立たない。いや、立てないのか。

 力の入らない膝を不思議そうに見つつ、何度も立とうと試みたが無駄に終わった。

「ごめんなさい。あれ、おかしいな。こんなはずじゃ……」

 必死に弁解しながら立とうとする結奈を見下ろして、石見は言った。

「誰か……、ええと、伊波君。紫上さんを医務室へ」

「先生! いえ、大丈夫ですから」

「大丈夫じゃありません。他ならぬ紫上さんが居眠りですよ。他の者が気になって授業どころじゃないんですよ」

 心配げにいう。その後ろでは「せんせー、私そんな対応してもらったこと無いんですけどぉ」「そりゃ普段の行いのせいやん」などと間抜けな会話がなされていたが、とりあえず無視された。

「行こう、紫上。随分疲れてるみたいだ」

「本当に大丈夫ですから。授業を進めてください」

「紫上」

「大丈夫です」

 埒が明かない。

 伊波は大きくため息をついてから石見を見て言う。

「先生、これ持ってっちゃっていいですか?」

「は?」

 指差す先には座り込む結奈の姿がある。伊波は返事を待たずへたり込んだ結奈を軽々と抱き上げた。

「おおぉおお……!」

「え、ちょ、伊波君……!!」

 クラス中からどよめきが起きる。結奈は体がかっと熱くなるのを感じた。夢の続きと思いたかったが、背を支える骨っぽい手の熱がその逃避を許さない。

「ちょっとベッドに放り込んできます」

「はい、お願いします」

「な、せ、先生……!!」

 顔を真っ赤にして助けを求めるようにクラスメイトに視線をめぐらせたが、皆楽しげに眺めているだけだった。

「ちょっと、伊波さん……! 冗談止めてください!」

 伊波は返事をせず教室の扉からでテイク。

 残された生徒たちは、なんだかものすごく貴重な物を見た気がして、なんとなく拍手が自然と沸いた。







「降ろして下さい、伊波さん……!」

「…………」

「聞いてるんですか!?」

「聞こえないな」

「聞こえてるじゃないですか……!!」

「験力の使いすぎ?」

「……」

とても卑怯なタイミングで聞いたなと我ながら思う。狙い通り結奈は黙ってくれた。

「大丈夫。授業中なんだから、紫上が騒がなきゃ誰にも見られないよ」

「……ごめんなさい」

 結奈は俯きながらぼそっといった。腕の中にいる少女を見下ろすと髪の間から赤く染まった項が見えて少し色っぽかった。

「何で謝るの?」

「いえ、わからないならいいんです」

「お役目のこと、俺たちに黙って勝手に行っちゃったから?」

「……伊波君は意地悪です」

 不貞腐れたよう少女は押し黙った。そんなつもりは無かったのだが、とりあえず大人しくなったのでいいかと結奈を抱きなおして医務室への歩みを速める。

「だけど、ここまでばてた紫上初めて見たな」

「……昨夜はちょっと数が多くて……」

「なら、尚更俺たちを連れて行けばよかったのに」

「……そこは九条宗家縁の地だったんです。だから、あまり人を連れて行くわけにも行かず」

「綾人さんと二人で?」

「はい」

「血統氏族しか連れて行けなかった、と」

「そんな意味じゃありません……!!」

 がばっと顔を上げて悲痛な声で言う。予想しなかった強い否定に伊波は思わず目を見開いた。

「あ〜、ごめん。別に皮肉とかの意味じゃなくて」

 那須乃とか宝蔵院先輩とかだけでも連れて行けばよかったんじゃないかといいたかっただけなのに。

 自分の方こそ血統氏族であることに劣等感を持っているかのようだった。

 結奈は唇を強く引き結び、憂いた瞳で床を見つめていた。

「……そんな顔、するんだよね。紫上は」

「え?」

 裏の執行部に入部するまでは、ただ、紫上結奈は完璧な人間だった。美人で優しくて、運動も出来るし頭もよい。かといって決して驕らずでしゃばらず相手を立てることを忘れない。遠巻きに憧れている男の名をいくらでも上げられる。自分は違うのかといわれたら、否定しない。やはり、男だし。伽月の相手は疲れるし。

 なのに、紫上結奈という一人の人間と接しはじめたこの短い時間で発見した新しい顔の、その多さ。そんな憂いた顔をすることがあるなど。

「騙されてたよな、すっかり」

「伊波君?」

「いや、なんでもない。で? 昨日はどれくらい討ったの?」

「17,8でしょうか」

「……一人で?」

「はい。総代はもっと倒していましたが」

「……そういうところに二人で行くこと自体間違ってないか?」

「断れないお役目だったので……。本当は私が行くのも拙かったのですが総代一人では流石にきついとわかっていたので無理やり押し込んでくださいまして。……あの、伊波君」

「うん?」

 結奈は再び俯いておずおずと言った。

「貴方にお願いが」

「……何?」

「……倒れたことは、どうか綾人様には御内密に……」

 その時、何故か腹が立った。







「……よく、わかんないんだけどさ。紫上」

 なぜ、そんなことを自分が言おうとしたのかよくわからない。だけど、止められない衝動が確かにあったのだと、後に振り返ることが出来た。

 同行を頼まれた結奈は、どこか少し誇らしげだった。

 その嬉しそうな顔だって今までは見たことが無かった。そんな顔が出来るのに。

「総代の仕事に何時だって同行してて」

 なのに、脳裏に強く焼きつくのは唇を引き結んだどこか切なげな顔で。

「そこまで、綾人さんに信頼されてて」

 崩れていく偶像。

 ふと顔を上げると、廊下の隅に九条綾人の姿を見つけた。こちらを真剣な顔して見ていた。

 ごめん、紫上。ばれちゃったよ。

 思いながら、言った。





「紫上は、一体何が不安なの?」







 それが嬉しいのか悲しいのか、自分でもわからない。







 その日、九条綾人も珍しい物を見た。本当に珍しい物を。





 頭の中に薄いもやがかかっていて、教官の声が子守唄のように聞こえる。昨夜の討魔はきつかった。終わったのは明け方近くて、それなのに真面目に授業に参加しているのは、同行させた参事が学校をサボるなど夢にも思っていないからだ。

 あれだけ戦って験力を使い倒して、それでも授業が受けられるのだろうか、あの娘は。

 行儀悪く頬杖をつき何か書かれていく黒板を眺めながら、同じように授業を受けているはずの少女を思った。

――結。お役目だ。

 そういえば、あの娘は断れないことを知っていた。

 きつい討魔になることはわかっていた。本当は執行部員全員連れて行って、それで丁度の仕事だった。

「……あの、石頭どもめ」

 天魔が出たのは九条に縁の深い地。何が、関わり無き者に足を踏み入れさせるわけにはいかないだ。身内の恥をさらしたくないだけだろう。結奈を連れて行く許可を取るのだってなんとかもぎ取った物だった。

 きつい仕事をさせてしまった。そもそも結奈の武器は気の力を多用する。今回のような任務には向いていないことははじめからわかっていた。終わる頃にはもうふらふらになってて、なのに気丈に微笑んでみせる。

――お疲れ様でした、宗家。

 彼女は、決して

――お怪我はありませんか?

 彼女は、決して自分の前では弱音をはかないから。

「先生、すみません。頭痛がするので医務室に行って来ます」

 九条は椅子から立ち上がった。





 嘘はついていない。実際頭ががんがん痛む。原因はわかっている。疲労と睡眠不足だ。

 廊下を歩きながら言い訳をするように考える。少し眠らせてもらおう。そうすればすぐに治る。

 もっと辛いはずの少女も医務室に来ていてくれればいいのだが。

「……それは、ないか」

 思わず笑って否定する。

 あの生真面目を絵に描いたような少女が授業を休むなど考えられない。

 もっと楽な生き方はある。確実に、存在する。だけど、あいつがその道を選択することはない。

「……知らないものは選びようが無いからな」

 小さく苦笑する。

 知らない。

 美しく聡明でありながら、彼女は知らない。

 それが悪いと言ってしまえばそれまでだ。彼女は何の躊躇もせずその一生を九条家に捧げるのだろう。

 ……一振り一振りに神経を削っていた頃のことなどよく覚えていない。痛みに対する感覚だってとうに鈍った。

 確かに初めて討魔した時には、相手の射程距離に入ること恐怖を覚えたはずなのに。今では雑魚と侮っても負けることの無い相手を退治することが恐ろしかった。戦闘が終わった時、二度とこんな目に合いたくないと思ったはずだったのに。

 今はそんな仕事の傍らにあいつを置くことが当たり前になってしまった。既にそれが日常。当たり前の毎日。

 九条は大きくため息をついた。

 例えば結奈が紫上家に生まれなかったら。思うことがある。

 紫上家に生まれなかったら、それはきっと彼女にとって幸せなことなのではないか。

 答えが出ないことを考えるのは嫌いだが、それでもその思考の回路から抜け出せられなくなる。

 穏やかで優しい。聡明だが驕らない。何より綺麗だ。

 少女に憧れを寄せる男たちを山ほど知っている。それらから彼女を結界のように守っているのが自分だということだってわかっている。

 ……もし、結奈が。

「……どさ、紫上」

 どこからか聞きなれた声が聞こえた。

「総代の仕事に何時だって同行してて」

 多分、それであいつは多分自由になれるだろうけれど。

「そこまで、綾人さんに信頼されてて」

 そして、きっとそれなりに幸せになれるのだろうけれど。

「紫上は、一体何が不安なの?」

 もし、結奈が解放を望むなら。その時、俺はどうするのだろう。





「……珍しいこともあるもんだな、結」





 手放す覚悟などないことに、伊波に抱かれる姿を見て思い知る。







 再び、伊波は珍しい物を見る。

 動揺する九条綾人など、そう滅多に見られるものじゃない。



「ち、違うんです。綾人様、これは……!」

「……医務室に行くところか?」

「はい、そうです」

「そうか。俺もだ」

「私が疲れてしまって、だから伊波君が医務室へって……」

「昨日の討魔は厳しかったそうですね」

「まぁな」

 動揺する結奈を片目に、九条は淡々と会話をこなす。無表情な九条がかえって彼の動揺を表していて伊波は面白かった。

「紫上も授業中居眠りしちゃいましてね」

「居眠り? 結が?」

「ちょ、伊波君……!」

「オマケに立ちくらみまでしちゃったから医務室への連行を頼まれまして」

「言わないでって言ったじゃないですか!」

「言わないで誤解される方が好みなら言わないけどさ」

「そ、それは……」

 顔を赤くしてくるくると表情を変える。気まずいのだろう。先ほどから俯いて、九条の顔を見ようとはしない。

 九条はそんな結奈の様をじっと見ている。

 自分よりよっぽど懇意な男の前で少女をからかうのは結構面白い。が。

「…………」

 相手は九条綾人その人で、あまり調子に乗ると自分の命が危うくなる。そろそろやめようかと思ったその時。

「……パスだ」

「はい?」

「ついでだ。それは俺が持っていこう」

 真顔で言って近づき、腕を差し出す。

「それ」とは「これ」のことだろうか。思わぬ物言いに思わずまじまじと腕の中の人物を見下ろした。

「あ、やひと様?」

「……伊波の方がいいのか?」

「いえ、決してそんなわけでは……! っていうか、そんな問題じゃ……!!」

 顔を真っ赤に動揺している結奈を無視して苦情はその体を抱き取った。

「綾人様! 降ろして下さい! 私もう歩けますから……!!」

「ご苦労だったな、飛鳥。後は任せて教室に戻ってくれ」

「総代……!」

「はい。それではお願いします」

「ちょ、伊波君……!」

 見捨てないでと言いたげな悲痛な叫びを聞き流し、伊波は教室へと歩き始めた。

「伊波君!」

 ごめんね、紫上。

 心の中だけで謝る。

 この後どうなるか正直興味は大きいのだが、邪魔するのも野暮だし怖い。

「伊波君……!!」

 助けを求める声は段々遠ざかっていった。







 そして、九条はあまり珍しくない物を見下ろした。

 唇を引き結び、睫を伏せている。いいたい事があるのに言えない時の表情。

「……言わせないのは、俺か」

「え?」

「いや、なんでもない。立ちくらみだって?」

「……皆さん大げさに騒ぎすぎなんです。大したこと無いのに」

「結が居眠りしたら、そりゃ誰でも驚くだろうさ」

「総代!」

 相当恥ずかしかったのだろう。首筋まで真っ赤にして言う。

「……悪かったな」

「え?」

「無理をさせた」

「……総代」

「……少しは休め。無理がたたってお前に倒れられたら困る」

「……無理など……」

 結奈の声はか細く、だけど折れない意思が通っていた。

「無理など私はしておりません」

「……倒れそうになってもか?」

「そうです」

 凛とした声。

 ……小さな体だ。無理に力を入れてしまえば折ってしまいそうな華奢な体。きっと泣かすことなど容易い。

「綾人様のお役に立つのが私の使命です。そこに無理などありません」

 決してこいつは裏切らない。わかっているから、命令を繰り返す。

「……今日は先生は出張でいないそうだ。気が済むまで寝ればいいさ」

 体を抱いたまま器用に扉を開けて中に入る。少女の体をベッドに横たわせた。

「……はい」

 微かに微笑む。その健気さが胸に痛い。

「寝ろ」

「綾人様は?」

「お前が寝たら、俺も休むさ」

「……はい」

 静かに頷いて、瞼を閉じた。暫くすると穏やかな寝息が響いた。それを向かいのベッドに座って眺める。

 手を伸ばすと、その髪に届いた。綺麗な髪だった。

――「紫上は一体何が不安なの」

「……痛いよ、飛鳥」

 それは本当に痛い一言だった。結奈にとっても自分にとっても。

 少女の不安をわかっていながら取り除けない。

 取り除けば、彼女は解き放たれてしまうから。

「……救いようが無いな」

 九条はベッドから離れ、治療用におかれたソファに体を投げ出した。とても隣には寝られない。

 疲れた体に眠気はすぐにやってきてくれた。それに逆らわず身をゆだねてしまおう。

 眠りに全てを紛らわせ、目が覚めたときには忘れてしまえばいい。





――「紫上は一体何が不安なの」





 そんなの、俺も一緒だよ。