7話以降のネタばれを含みます。ご注意下さい。

 





 あの人はあまりにも私の





 慟哭の獣



 

 仕事の量は確かに増えていた。当たり前のことだ。以前は九条と分担していた仕事をほとんど一人でやっているのだ。連携が上手くいっていた。だからどれだけ仕事の量があろうと案外早く捌けていたのだろう。手伝うと言ってくれる人手は多いのだが帰って時間がかかることに気付き、今は心だけありがたく受け取り丁重に断ることにしていた。

――一人で無理したら駄目なんだからね。

 寝不足で登校しては毎日伽月に怒られる。腫れ物に触るような態度をとり続ける人の中にあって、そのストレートな心配はとても心地よく、もっと怒られたくなってしまう。

 こんなこと言ったら本気で怒られるだろうな。

 日直の先生に追い出されるようにぎりぎりまで学校で粘った結奈は、暗い廊下を歩きながらくすくすと笑った。

 鞄の中には持ち帰りの仕事がたくさん入っている。一度家に帰ると集中が切れてしまうので出来るだけ学校でやってしまいたいのだが。

 今度郷士にお願いして、鍵を執行部で一本管理させてもらえないか頼んでみよう。

 そんなことを考えながら下駄箱から靴を取ってもうしまっている生徒用の昇降口から職員用の玄関に回った時、ようやく気付いた。

「……やだ、雨強くなってる……」

 空気が湿っていたのは知っていたが、走って行ける程度かと思っていたのに。雨はいつの間にか大粒の物に変わり、走ったとしても家に着くときにはびしょぬれになってしまいそうだった。体だけならともかく書類をぬらすのはいただけない。

「……どうしよう」

 軒先で暫し途方にくれる。と、その時。

「あれ〜? 結奈ちゃんじゃない。どうしたの、こんな時間に」

「……京羅樹、さん?」

 そこにいたのは京羅樹崇志だった。寮に帰るところなのだろうか。黒い傘をさしてたい。

 時間はもう9時に近い。外は大雨だ。その中にあって明るい彼の髪と能天気とすら言える声が妙にこのシチュエーションに不似合いに思えた。

「何? こんな時間まで仕事? 駄目だよ〜、青春をそんなことで浪費しちゃ〜」

「……はぁ」

 何がそんなに楽しいのだろう、笑顔を振りまいて言う彼になんと答えればよいのかわからない。

「あれ? 傘ないの?」

「えぇ……。まぁ……」

 目敏い男だ。そのまま去ってくれればいいものを。煮えきらぬ返答をしながら思った。

「結奈ちゃん、自宅通いだよね。結構距離あるんじゃない?」

「えぇ、まぁ。でも何とかしますから」

 なんだか妙に居心地が悪く、下を向いたまま口早に答える。

「おれっち、送ってあげようか」

「いえ! 結構です!!」

「……」

 不自然なほど即答してしまって、しまったと思う。京羅樹は一瞬ぽけっとしたあとにやりと笑って結奈を見た。手痛いミスを犯してしまったような気がする。

「あ、あの、本当に何とかなりますから。それより京羅樹さんこそ寮に戻らないと。門限とっくに過ぎてますよ」

「今更多少帰るのが遅くなったって変わらないよ。大体こんな時間じゃ、門限破りの不良ぐらいしかここ通り過ぎないよ?」

「ですが……」

「あぁ、それとも」

 何かを思いついたかのようなわざとらしい声音。京羅樹は横目で結奈を見下ろした。

「名家紫上家の跡取り娘ともなると、何も言わずともお迎えの者が馳せ参上するのかな?」

「そんなことありません……!」

 どこかあげつらうような口調に思わず強く反論する。

「そう? じゃ、やっぱりおれが送って行ったほうがいいね」

「……ありがとうございます」

 言って、結奈は京羅樹の傘の下に入った。

 どこか、誘導されたような思いを抱きながら。







 初めて会ったときの印象は最悪だったものの、度重なる交流により月詠に対するイメージは随分変わった。

 交換学生で天照館にやってきた御神晃は軽い性格に見せながら誠実な人間だった。天照館と月詠学院の間に立ち、苦悩する姿は見ていて可哀想だが、そのせいで猶信頼が高まったと思う。

 姫宮伊織の二面性には最初は驚いたが、どれだけきついことを言おうと彼女は嘘をつかない。それはとても好ましい物に思えた。鳳翔凛は、その名の通り清冽な空気を持つ人で、見ていてとても心地よい。一度心を開いて話をしてみたいと思わせる人だ。飛河薙は、……よくわからないが。

 とにかく概ね好印象に変わっていった人たちの中で、ただ一人苦手なのか隣に立つ京羅樹崇志だった。享楽的で刹那的、いつもいい加減であるくせにその目はいつも油断がない。猛禽類に睨まれてるかのように居心地が悪くなる。

 そんな男と1つの傘で並んで歩くこの現実が信じられなかった。強い雨の音が傘を叩く。

「そんなに離れちゃ傘に入ってる意味ないでしょ」

 せめて距離をとろうと少しずつ離れていたら腕をつかまれて必死で稼いだ距離が0に戻る。男物の大きな傘であることがせめてもの救いだった。

「…………」

 気付かれないように小さくため息をついた。先ほどから彼はひっきりなしに話をしていた。決して話上手というわけではない自分にとってはありがたい事なのだが、その内容が流行の歌だの好きなブランドだの、あまりにも自分の得意範囲とは別なので返答に困る。鎮守人の歴史とか雅楽のこととかだったら延々と語ってやれる物を。家までの道のりがやけに長く感じた。

「……詰まらない?」

「え? いえ、その。……すいません」

「そこで謝っちゃうんだ。素直だねぇ、結奈ちゃんは」

 あまりに当然のようにされた肯定に京羅樹は思わず苦笑し、失言に気付いた結奈は再び謝った。早く。早く家に。

「ま、しょうがないかな。おれっちと結奈ちゃんじゃ生きてきた世界が違うからねぇ」

「そんなこと……」

 京羅樹の言ったことは事実だったので、最後まで否定が出来ず、結奈はただ俯く。そんな結奈を京羅樹は楽しそうに見下ろしていた。その視線を感じてますます身がすくむ。

 どうも、この男は駄目だった。自分の心の弱いところを見透かされている気がする。息がしづらい。

 この感触を、どこかで味わったことがある。どこかで。

 思い出せぬまま、もう一度距離をとろうと試みる。大粒の雨が服の袖を濡らして行く。それがどうしたという気分だ。素直に家人を呼べばよかった。走って帰ってしまってもかまわない。こんな思いをするならば。

「……だから濡れるって」

 再び引き戻される。腕を回して濡れた服の上をつかまれて、ぞわっとして思わず振り払った。

「おっと失礼。役得だけど」

 全然そんなこと思っていなそうな顔で言われて頭に血が上った。

「京羅樹さん!」

「ラギーって呼んでっていってるのに」

 かわされる。

「……ここで結構です。私、帰ります」

「怒らせちゃった? ごめんごめん」

 傘から出てゆこうとした結奈を京羅樹が腕を掴んで引き止める。

「放してください。あともう少しですから本当に大丈夫です」

「こんな雨の中一人で帰せるわけないでしょ? あと少しならもうちょっと我慢してよ」

「放してください」

「そんなことしたら天照館の奴らに殴られちまうよ」

「は?」

「……寝てないんだろ?」

「……」

 不意に京羅樹の声が真剣な物になったから嘘がつけなかった。

「そんな時に雨にぬれて体冷やしたら本当に風邪引いて倒れちまうぜ? 今の天照館はあんたがいなきゃやっていけないんだぜ? 自分のわがままで天照館を危機にさらすのはどうかと思うけどねぇ、おれっちは」

「…………」

 それは正論だけど、悔しくて唇を引き結んだ。

「あんた一人の体じゃないんだ。無理しちゃ駄目だよ」

 フラッシュバック。

――御身一人の体ではございません。ご自重下さいませ。

 それは、まだあの人がいた頃の。

「……結奈ちゃん?」

 がばっと顔を上げて硬直した結奈を不審そうに京羅樹は覗き込む。

「い、いえ。なんでも。いきましょう」

 胸が苦しくなって、吐き気に近いもやもやが胸の中に満ちて、でもそんなことを言われてしまったら一人で駆け出すことも出来なくなり、結奈は京羅樹の服の袖を引っ張って歩き出した。

 京羅樹は不審そうな顔をしながらも引かれるままに歩く。

 早く家へ。今日は帰ったら仕事をせずにすぐに寝てしまおう。明日少し辛くなるだろうがかまわない。寝て、この気持ちを、胸の中に詰まった嫌な物を吐き出してしまいたい。だから、早く家へ。

 なのに、その願いは許されなかった。



「……本当に、なんにでも一生けんめいだねぇ。結奈ちゃんは」



 その冷やかすような声は軽薄なのに、心臓にダイレクトに響いた。





「……そんなこと、ありません」

 足は止めない。手は放す。京羅樹は変わらぬペースでついて来た。

「そんなことあるって。まぁさかここまで立派に後をついでやるとは誰も思ってなかったんじゃない?」

「勘違いです。ご存じないでしょうが、綾人様ご存命の折にはこんなに遅くまで仕事を行うことなどありませんでしたもの」

 声が震えてしまわぬように、腹に力を込めながら答えた。

「あたりまえじゃん。九条綾人には紫上結奈がいたけど、紫上結奈には紫上結奈しかいないんだから」

「……総代は私などいなくても、見事お役目を果たしたと思います」

「そんなこと信じてるのは結奈ちゃん一人だと思うけどね。まぁ、実際驚いたかな」

「驚く?」

「九条宗家の分家、紫上家の跡取り娘。九条綾人の懐刀」

 京羅樹は言う。

「東京にいたときいた時、ユーたちのこと随分調べたんだけど、結奈ちゃんってかならず九条綾人とセットだったんだよね」

「……そんな、恐れ多い」

 何を言おうとしている。終着点の見えない言葉に警戒しろと命令が出る。

「だからビックリしたよ、九条綾人亡き後のユーを見て」

 警戒しろ。

 この男は危険だ。

「……どういう意味でしょうか」

「誰もが想像した執行部、……いや、天照館そのものの崩壊を見事に食い止め、尚且つ来るであろう危機に対する備えを着々と備えつつある」

「…………」

「データにはなかったんだよね。そんな紫上結奈の存在は」

「……私は綾人様に託されたんです。天照郷の未来を。だから……」

「託された、ね」

 京羅樹が笑う。

「ならば、天照郷はいつか九条綾人の名に新たな意味を見出すかもしれないな」

「……意味?」

「意味」

 笑う。

「伊波飛鳥、真の神子を見出し……」

 笑う。

「……新たなる総代、紫上結奈を覚醒させた」

「……止めてください」

 それ以上言わせたくない。結奈の掌にじっとりと汗がにじんでいた。

「普通にしてても結奈ちゃん総代になっただろうけど、だけどこんなに鮮やかな手腕を本当に発揮できたのかな」

「何が言いたいのですか!」



「気付いてないだろうけどさ、結奈ちゃん」

 ……あの日から、ぽっかり胸に穴が開いている。



「今のユーはすごく生き生きしてるよ」

「……ご冗談を。私毎日寝不足で……」

 埋めがたい穴。帰らぬ人。



「まるで何かから解き放たれたみたいだ」

「止めてください」

 面影。



「それが本来のユーの姿なんじゃないかな」

「止めて……」

 あの人の。





「……九条綾人の存在は、そんなに重かったのかい?」

「止めて……!!!」





 我知らず叫んでいた。

 京羅樹の肩を突き飛ばし距離をとる。同じ傘の下になどいたくなかった。大粒の雨が見る見るうちに制服をぬらし皮膚の温度を奪っていくが、そんなことどうでもよかった。

 この目は嫌だ。声が嫌だ。全て嫌だ。

 瞳が熱い。頬が濡れているのは雨なのか涙なのか自分でもよくわからなかった。

「違う。違う! そんなんじゃない」

 何を言えばいいのだろう。もう、わからない。

「私は、綾人様が。綾人様を……」

 あの人が、ただいない。

「……そうじゃない」

 踵を返して走り出す。背後に絡みつく視線が疎ましかった。





 水溜りを踏んだ靴は中まで濡れ、靴の中で水を踏む感触がしていた。服は皮膚に張り付き気持ち悪い。鞄の中の書類は書き直さなければいけないだろう。もうどうでもよかった。

 気付けば藍碧台まで来ていた。よく二人でここから郷を見渡したものだった。

 あの人は、よく未来を語っていた。

 宿命に縛られず、あるがままに生きていきたいと。

 だから、私はそれを手伝おうと、そう誓ったのに。

「綾人様……」

 がくんと力が抜け、地に膝を着く。濡れた草がチクチクと痛かった。

「……どこにいるのですか、綾人様」

 熱い物が涙に混ざって頬を伝ってゆく。もうぼろぼろだった。

――……九条綾人の存在は、

「……違う。そうじゃない」

 ゆっくりと首を振る。髪の毛が頬に張り付いた。

「……そうじゃない……」

 京羅樹は知らない。

「……綾人様……」





 あの人はあまりにも私の全てだった。





 顔を両手に埋める。

「……何故……」

 唇を強く噛む。血の味がした。

 それがなんだ。そんなの慣れている。

 慣れていないのは、この胸の空洞だけ。

 あの人がいないという、この現実だけ。



「っく、っうぅ、ぁぁぁああああ」

 嗚咽がこぼれる。

 獣みたいな声だった。





 ならばいっそ獣のように美しく儚いものになれればよいのに。

 慟哭の音は雨に紛れて、止まることなく響き続けていた。

 


別に京羅樹×結奈というわけでは。結奈を容赦なくえぐれるだろうキャラが京羅樹しか思いつかなかったの★ 好きな女の子いじめるのなんて大好きさ★ 京羅樹みたいなキャラはそれほど好きって訳でもないのですが書きやすいです。

っていうか京羅樹がなんと結奈を呼ぶかわからない。あの世界の方々軽々しく恥ずかしいニックネームを好き勝手つけてしまうので想像できません。美沙紀がミーシャってなんなんだ。そしてユーたちって言い方はおかしいと思う。