その日、月がとても綺麗で。

 本当に綺麗だったから。





 その月の下で。





「……こんな所にいたのですか、宗家」

 風の渡る藍碧台に少女の声が響く。虫の声が葉ずれの音の合間に囁き、頬をくすぐる風は涼やかだ。キレイな物ばかりが揃ったなと九条は思いながら手にした杯の中のものを口内に流し込んだ。

「こんな時間にどうした、結」

 草叢に腰を下ろし、中天にはまだ遠い満月を眺めながら背後に立つ少女に答えた。

「それはこちらの台詞です」

 背後でため息をついた気配がした。その女の名を紫上結奈という。分家の跡取り娘で付き合いは長い。

「頼まれていた草稿が出来上がったので家まで届けに行ったのですが……」

「そうか。留守にしてすまなかったな。だからってここまで来るとはな。一人でこんな時間に危ないだろう」

「危ないのは宗家とて同じです」

「俺は男だぞ」

「御身一人の体ではございません。ご自重下さいませ」

「やれやれ。不自由な身分だな」

 再び杯を傾ける。

「……お酒を呑んでらっしゃるんですか?」

 声が潜められる。誰かに聞かれるのを恐れるかのように。誰もいないというのに気苦労なことだと思う。

「嗜む程度だ」

 言って杯の中の日本酒をあける。酒気が喉を焼いた。

「なりません! そんなこと学園にばれたら……!」

「お前が黙っていれば誰にもばれないさ」

「そういう問題ではありません!」

「お前も一杯やらないか?」

「宗家……!!」

 これ以上からかうと本気で怒られそうなので、一人で杯を傾けた。

「……どうかなされたのですか?」

 心配げな、どこか嘆くような声音。それだけ身を案じていながら、決して傍らに立とうとしない少女に微かに酔った頭が苛立つ。

「……なんでもないさ」

「ですが……」

「そんなに心配なら一杯付き合ってくれればいいのに」

「綾人様」

 困ったように名を呼ばれて、少し機嫌が治った。

「別に本当になんでもないよ。月が綺麗だったから月見酒に来ただけだ」

「月?」

「あぁ」

 蒼ざめて白く輝く月が世界を照らしていて、何の灯りなしにも明るく歩けた。地に縫い付けられた影が紫色で、それがなんだか楽しくて帰れなくなった。

「まさか、お前が来るとは思わなかったけどな」

 思わぬ肴が引っかかる。

「……帰りましょう。お送りいたします」

「送るのは俺の方じゃないのか?」

「自分の立場をもう少しおわきまえ下さい。貴方は……」

「わかったわかった」

「……綾人様……」

 困り果てたように名を呼ばれる。ねだられるようなその声は、悪くない。

「少し眠くなったな」

 まだ酒は残っていたが脳裏が心地よい眠気に襲われてきた。

「綾人様?」

「結、少し膝を貸してくれ」

「………………は?」

 なるべく自然に言ったつもりだったのだがやはり上手くはいかなかったようだ。結奈はいっそ愉快なほど硬直してしまった。

「聞こえなかったか?」

「…………いえ、聞き間違いかと……」

「多分間違えてない。膝を貸してくれ」

 今度こそ本格的に硬直してしまったらしい。反応が全くなってしまった。

「……結?」

 腕を後ろについて背後に立つ結奈の顔を覗き込んだ。少女は俯いて髪が下を向いて表情がよく見えなかった。ただ、髪の合間から見えた口元が硬く引き結ばれていた。

 ふざけが過ぎたかもしれない。前言を撤回しようと口を開いたその時、少女が機先を制して言った。

「……それは」

「え?」

「それは命令ですか……?」

「…………」



 その時風が丘を通り過ぎていった。ざわめき立つ葉の音、さらわれる髪。

 白い肌は月に照らされいっそ蒼ざめて見えた。

 人形めいた顔立ち、形のよい唇。月光を受けて浮かんだ陰影は幻想的で、なのに瞳は悲しげながらも凛として確かにそこに存在していた。

 葉ずれの音が、頭の中で反響する。

 さやさやと。

 ざわざわと。



 だから、だ。

「……そうだ」

 そんな返答をしたのは。





 結奈は無言で裾を丁寧に捌きながら地に座った。

 ゆっくり体を倒し、膝に頭を預ける。

 一瞬だけ瞳が絡んだ。瞼を閉じて自ら遮る。

 こんなことをするから、ますます遠くなるのだ。

 そんなことわかっている。

「少し寝る。30分で起こしてくれ」

「はい」

 その声は、あまりに冷静に響いた。





 大きく息を吸ってゆっくりとはく。

 少女の顔越しに見えた白い月が、せせら笑っているように思えた。

 酔っているのだ。

 全てを酔いのせいにして、少女の息遣いを感じながらゆっくりと意識を手放した。

 


思った以上に九条結にはまったようです。

九条側からばっか書いてるんだけれども、本当は結奈の内面弄る方が面白そうです。面白そうなんだkれど、えぐると痛そうでちょっと怖いわ★