それは優しい音色だった。だけど悲しくもあった。
 好きな物にはのめり込む性分だと言っていた。彼にとって、その楽器はとても性にあった物だったのだろう、音色が切なくて、胸が痛くなる。
 街角に適当に座って、一曲流して、そんな生活を心から楽しんでいる。彼が逃げてきたものの重さを、きっと私は理解していない。
 だって、笑って、自分が家にいるわけにはいかないんですよなんて、そんな台詞を吐かれても、それに答えていいだけの経験を私は積んでない。
 何時も笑っているくせに、心の奥が見えなくて、あんなに馬鹿なことばかり言って人を笑わせているのに、音色はなぜかほろ苦い。
 徐々に人垣が出来ていくのを、買い出しの荷物を抱えながら見ていた。緩やかに、その人と自分の間が隔てられてゆく。今見えるのは、瞳をつぶって曲に傾注している顔だけで、その手元も見えない。
 それは、たくさん話しているのに、心の奥底がのぞけないその人と自分との関係にとてもよく似ていた。
(……早く唄って)
 言葉優しく、上手に甘やかしてくれるけれど、触れられない。居心地が悪い。
(早く唄って)
 呆れた顔して、立ち去られて、困ったなと笑いながらここにいる私に気づいて。
(ねぇ、早く)

 ここにいる、私に気づいて。



 申し訳ないなとは、思っていた。


 耳に馴染んだ三味線の音、昔より上手くなっていて、自分が出したいと思った音が本当に出せるようになったことに喜びを感じる。
 どこか切ない音は自分をも気持ちよく酔わせる。少しずつ人垣が出来てきて、それもまた気分がよい。
 こんな生き方をしている自分がいる。 家が嫌で、しきたりが嫌で、全てから逃げてきた自分に与えられた思いがけない幸福。再び剣を持つことを選びながらも、心の中に充足がある。
 ふと、人垣の向こうに、今の充足を与えてくれた人を見つけた。銀の髪の幼さすら感じる少女は、ひたむきで真っ直ぐで、生きることに一生懸命で眩しくて、それなのに自分に優しくてしてくれた。優しく、心配してくれた。それがあんまり嬉しかったから。
 申し訳ないなとは思っている。
 ご主人はあんなに真っ直ぐで真っ当な人なのに、こんな人間に引っかかってしまって。きっとあの駐在軍人とか資産家の幼なじみとか、彼女をもっと幸福にしてくれる人はいるのだろう。

 だけど、ほっとしたのだ。あんな真っ当な子に思いを寄せるような自分に。
 だから、本当に申し訳ないのですが、自分に引っかかっててください。


 そして、ろくでもない侍は、愛しい少女の視線を感じつつ、いつ歌い出そうかと考えているのだった。