その少女は、水と悲しいものしか食べられない。





 微かなる、その応え





 夜更け、暗闇の中その娘は川辺へと一人訪れた。膝丈のあたりで擦り切れた粗末な着物。そこから伸びた手足は白く、いっそ蒼ざめて見えた。

 裸足の娘は辺りを警戒してからぱしゃぱしゃと水しぶきを上げて、膝ぐらいまでの水深の川の中へと入っていった。背にかかる黒髪はざんばらに切られ、それでも艶がありしなやかなその髪は月光を受けて煌く。

 娘は川の中央辺りへたどりつくと、流れの乏しい川の上流を見つめた。

 月光を受けて光る川に目を凝らす。やがて、そこに月光の輝きとは異なる蒼い輝くもやのような物を見出した。娘は慣れた様子でそれに近寄ると流れてきたそれを両手ですくいあげた。

 それを救った感触はない。けれど、その輝きは確かにその掌の中にあって、さわさわと形を変え続ける。娘はそれを暫しうっとり眺めた後、躊躇うことなく飲み干した。

 満足げな吐息が、赤い唇からこぼれる。娘はもっと流れてこないかと上流を見透かすように見つめた。多分、今食べたのは葬式の涙だ。不謹慎ながら、疫病でも流行ってくれればいいのに、などと考えていた。その時だった。





「あっはっは。いると思った」

 川辺から、男の声。娘は鋭い目で睨みつけた。

「……狐か」

 唇をぬぐいながら舌打ちをする。

「美味かったか? 美味かったか?」

「黙れ、妖」

 年頃の娘にしては乾燥した声が吐き棄てる。

「葬式か? 葬式か?」

「うるさい」

 娘はばしゃばしゃと水音を上げて川原へと上がる。ここにいてもこれ以上の収穫はなさそうだ。娘は髪をかきあげながら男の前を通り過ぎる。だが、男は楽しげに笑いながら後をついてくる。

「腹は満腹になったか? なぁ、なったか?」

 短く息を吐いて、娘は振り返った。

 長身の男だ。闇の溶けるような黒い髪、墨染めの衣、数珠を首にかけ一見有髪の僧だが、暗闇の中で爛々と輝く黄色い瞳と縦に切れた瞳孔が人間でないことを表していた。

「ついてくるな」

「腹は満ちたか? なぁ。無理だろう? あれっぽっちの悲しいじゃお前は足りんだろう。なぁ」

 自分の言葉など聞こえないかのように、男は楽しげに笑う。人懐こくすら見えるのが異様だった。

「なぁ、足りんだろう。腹が減っただろう。可哀想になぁ。可哀想になぁ」

 お前は人間じゃないから。

 娘はかっとなって男の頬を張った。

「私は人間だ!」

「嘘だ、嘘だ」

 男の端正に整った顔で無邪気に笑う。それが頭にくる。

「俺は知ってるぞ。人間は死肉と草を喰らうんだ。お前は水と悲しいモノの残骸しか喰えない。だからいつもはらぺこだ。可哀想になぁ」

「黙れ」

「可哀想になぁ」

「うるさい……!」

「……可哀想にな」

 ふと、口調が改まる。惹かれるように男の顔を見る。黄色に輝く瞳が、哀れむように静かに自分を見据えている。

「お前が」

 娘は頭にかぁっと血が上るのを感じた。

「お前が私を哀れむな……!!」





 何時、何処で、誰から生まれたのか知らぬ。

 ただ、気付けば自分という存在があり、人間の食べ物は何も食べられなかった。肉も野菜も生臭くて、食べると胃が受け付けないで全て吐き出してしまう。酷く餓えていた事だけ覚えていた。

 疲労でふらふらしていたときに、墓の辺りでその青い光を見つけた。

 ふわふわしていて、きらきらで、気がつけば墓石に手をついて、その青い光を飲み干していた。

 胃の中にすぅっと何かが溶けていく感触。知らず涙がこぼれていた。

「……あぁ……」

 

 その光が、悲しいことが起きたところに現れるものだと気付くのに、そうは時間がかからなかった。





「お前が、お前なんかが私を哀れむな」

「可哀想にな。一体どれだけの地を転々としてきた? 光を食すところを見つかって、何度石で打たれた?」

「うるさい!」

「……もう、わかるだろう? わかってるだろう?」

「言うな!」

「お前は人間じゃないんだよ」

「……うるさい」

 娘は強く唇をかみ締めた。

 あんな光だけじゃ日頃の餓えは満たせはしない。生きているだけで辛い。

 それでも手放せない、生。

 この欲求が人間の証でなくて何だろう。

 人間の証でないのなら、何のためにこの苦行に耐えているのだ。

「たかが、狐風情が偉そうな口を利くな。お前など」

 黄色い異形の瞳が、輝く。

「お前の姿など、誰にも見てもらえないくせに」

 それが美しくて、妙に歯がゆくて、娘は言う。

「お前の声など、誰にも届かないくせに」

 それの名を、きっと憎しみというのだと、娘は思う。



「私が応えなければ、お前の存在などこの世にないと同じくせに……」

 有髪の僧、黄色い瞳の狐。

 この世界にたった一匹の妖は誰にも見えず、誰にも聞こえない。





「なんだ、怒ったのか? 怒ったのか?」

 口元に無邪気な笑みを戻して、狐は楽しそうに娘の顔を覗き込んだ。

「……お前など、知らぬ」

「怒ったのか? 怒ったんだな?」

 歩き出した娘の後をひょこひょこついてゆくが、娘は相手にせず足早に歩く。

「なぁ、悔しいか? 悔しいか?」

 娘はその声など聞こえないかのように、一切反応しない。

「なぁ。なぁ?」

 娘は応えない。

「なぁ。……なぁ?」

 応えない。

「おい。聞こえてるんだろう? なぁったら」

 狐の顔が、少し不安げに揺れた。娘は、そんな声は聞こえないとばかりに、ただ歩く。

「なぁ。聞こえてるんだろう? 返事をしてくれ!」

 応えない。

「わかった。俺の悲しいをやるから。だから無視なんかしないでくれ!」

 娘が足を止めた。冷たい視線が、黄色い瞳を捉える。狐は無様なほどほっとして腰を落とした。

「全く。焦ったぞ? 焦ったぞ?」

「ふん。最初から、そう言えば良かったんだ」

 娘はへたりこむ男の傍に膝をついて、目の下、もしあるのならば涙の通り道に唇を寄せた。美しく輝く黄色の瞳が閉じられたことを確認してから、娘はそれをそっと吸った。





 男の悲しいはとても濃くて、ほんの少しで腹が満ちた。





 無造作に口元をぬぐう。

 この男の悲しいはぞっとするほど甘くて深く、引きずりこまれそうで嫌だ。離れようとした時、自分の背中に男の両腕が回されていることに気がついた。

「終わった」

「あぁ」

「放せ」

「いやだ」

「狐」

「いやだ」

 駄々をこねる子どものように、狐は回した腕にぎゅっと力を込めた。妖の体は、意外にも暖かく、それが胸に詰まった。

「痛い」

「いつでもくれてやるから、だからお前は妖になれ」

 焦がれる声。泣きたくても、妖に涙はない。

 ただ、積もってゆく悲しみ。

 涙がこぼれたのは、多分狐のものだ。彼は、自分に泣かせるために悲しみを食わせるに違いない。そうに決まっている。

 なのに、背中に回された手が労わるようで、だから錯覚しそうになる。

「いやだよ」

「早く妖になれ。早く妖になれ」

「……私は、人間だ……」

 こいつは私を利用しているだけだ。

「私は、……人間だ……」





 こぼれる涙を勘違いしないように、ぎゅっと墨染めの衣を握り締めながら、二人は孤独と飢えを奪い合った。