ぐちゃぐちゃになりたい。

 恥も外聞も名声も責任も全て捨てて、滅茶苦茶になってしまいたい。




 酩酊の夜



 右手に、真の紋章が宿した。

 綺麗な楕円を描く水の紋章を宿した。

 父を名乗る、父を殺した男からもらった。

 殴る前に、泡に消えた。

 私は力を得、思いだけがどこにも行けない。



 書類仕事に一区切りついたクリスはボーっと左手で頬杖を付いて窓の外を見ていた。空は抜けるように青く、腹立たしいほど綺麗だった。部屋の中に落ちる木の影に、小鳥のはばたきが見えた。

 そっと扉を開けると静かな風が部屋を通り抜けていった。銀色の髪が揺れる。

「……気持ちいいなぁ」

 泣きそうな顔でクリスは呟いた。

 世界はこんなに美しいのに、どうして自分は受け入れらないのだろう。

 何かが体の中でくすぶっている。咽喉の奥に何かがこびりついてるようで粉っぽい。目の表面がやけに乾いて、その奥はだるい。鼻の奥に何か詰まってるみたいで気持ち悪い。息が上手にすえない。自分の体に気持ち悪い薄い膜が一枚こびりついていて、私が世界と触れ合おうとするのを邪魔する。気持ちが悪い。

 室内の方を振り向いて背中を壁に預けてずるずる座り込んだ。

 左腕で顔を覆って右腕をだらっと下に落とした。指の隙間から右手を盗み見た。この腕、誰か肩から切り落としてくれないだろうかとか思う。

 やけに重い。だるい。汚らわしい。

「くそっ」

 力任せに甲を壁に叩きつけたら、痛みがよりそれの存在を感じさせた。

 苦しい。





 カラヤの戦士、ジンバが死んだ。

 遺体すら残さず、遺志だけを残してこの世から消えた。

 大好きな男だった。

 父を亡くした真の水の紋章の継承者は淡々と執務をこなし、50年前共に戦った友を亡くした炎の遺志を継いだ男は相変わらず表情が読めなかった。そして一人、真の雷の紋章を引き継いだ少年は戸惑う。兄のように慕っていたジンバの死は胸が痛い。だけど、自分より悲しむべき人間がいるんじゃないかと思うと、それを大っぴらにするのに罪悪感を覚えてしまう。

 なんだろう、この砂をかむような違和感は。

 人間とは、人の死を受け入れられるようになるものなんだろうか。いつか、そんな日が俺にも来るのだろうか。

 ……それは、何人人を殺したら来るのだろうか。

「ルル」

 何度も何度も同じ夢を見る。

 炎の中、美しい鬼がいて、顔は暗くて見えないんだけど、だけどその鬼は美しいってわかってて。

 その美しい鬼が俺の友達を切り殺す。振り向きざま一閃。ルルが倒れる。もう目を開かない。

 美しい鬼が、友を殺す。

 恐ろしく、美しい鬼が。

 鬼は鬼と恨み切れればよかった。恨みを糧に戦えればよかった。

 もう出来ない。その鬼を知ってしまった。山のように命握りつぶしてきたくせに、それでも友の死が彼女の笑みに重い影を落としていることを知ってしまった。

 ……苦しい。

 





「脇が甘い、足を止めるなぁ……! そんな腕でよく今まで生き延びられたものだな……!!」

 久々に騎士団長自ら稽古をつけてくれるというのでのこのこ集まった犠牲者たちが次々なぎ倒されて行く。自分たちの団長の腕は戦場で自分たちが一番見ているだろうに、目の前に立つとその容貌に目を奪われ、気を抜いたものは最初の一刀で地に叩きつけられる。さすがに人数を重ねるにつれ見当違いの余裕は吹き飛びその瞳は敵を目前にしたかのような真剣な瞳になったが、それでも実力の差はそう簡単に埋まるものではない。

 まして、今の彼女には鬼気迫るものがあった。普段は技で見せるタイプの剣士であるクリスが力に任せて剣を振るっている。相手をひれ伏せながら、自分が傷ついていくように見えた。

「遅い! 次!」

 一人転ばせては次。一人なぎ倒しては次。

 息が爆ぜ、一刀一刀の動きが次第に隙がでてこようとも、彼女を負かすことは出来なかった。

 相手をしていた若い男の騎士が、弾き飛ばされ地に転んだ。慌てて起き上がろうとした所をクリスが肩を踏みつけ剣先を男の鼻先に突きつける。

「……参り、ました」

「…………」

 鼻先からほんのわずかしか離れていない剣先を見つめながら、のまれたようにそう言った兵士を大きく胸を上下させながら暫し冷たい視線で見下ろした後、気を取り直したように胸から息を抜いて足をどけ手を取り引っ張りあげた。

「すまん、少し乱暴だったな」

「あ、い、いえ……」

 思わず手を握られて声が上ずる騎士。その後ろから涼しげな声が届いた。

「……クリス様にしては随分荒れた剣であらせられましたね」

 パーシヴァルだった。

 クリスは答えず模擬刀を傍にいた騎士に放り、渡されたタオルで汗をぬぐった。

「もう、お上がりになるのですか? 久しぶりに私もご指導いただきたかったのですが」

「今更私がお前に何を教えられると? その剣は後進のもののために振るってやれ」

「とはいえ、たまには鋭い切っ先と対峙せねば腕がなまってしまいましょう?」

「同じようなことをボルスが言っていたな。相手をしやったらどうだ? どうもあいつは血の気が多い」

「遠慮しておきましょう、あいつの相手は疲れる」

 軽口を聞きながら、決して視線を合わせないクリスの横顔を熱く見つめる。その視線に気づかないはずがないのに彼女はパーシヴァルに背を向けて哀れな部下たちに笑いかけた。

「今日は相手をさせてすまなかったな。今日は皆で飲むか」

 思いがけぬ崇拝する女性からの誘いにおぉと喜びの声が上がった。

「無理をさせた詫びだ。今日は私がおごろう。遠慮なく飲んでくれ」

 さらに上がった歓声にクリスは微笑む。

「クリス様」

「なんだ」

 あくまで視線は部下たちに。パーシヴァルのもの言いたげな瞳は殊更に無視した。

「私もご一緒してよろしいですか?」

「お前を独占しては城の女性方に恨まれてしまうよ」

「私の心は既に一人の女性に捧げていますから」

「……勝手にしろ」

 クリスは固い顔で呟いてパーシヴァルの横をすり抜けた。

「私は汗を流してくる。先に酒場に行っていてくれ」

 再び笑顔で行って去っていく。その後姿にパーシヴァルの視線は何時までも突き刺さっていた。





 酒場に明るい笑い声が響く。いつもは冷静な声で動揺を抑える声が、熱い声で鼓舞する声が、今はさも楽しげに響いている。

「……おい、今日団長結構飲んでるんじゃないか?」

「あぁ。随分楽しそうだな」

 いつもは傍に6騎士の誰かが控えて目を光らせているのだが、今日はパーシヴァルがいるものの席は遠ざけられ、平騎士たちの下らない話を聞いては笑っていた。

 大して強くない酒をさっきから随分あおっている。頬がほんのり桜色に染まって、いつも凛とした目元がやわらかく下がっている。 左手で頬杖をついて優しく微笑むその姿はどこか女を感じさせた。常とは違う姿に、平騎士たちもかなり舞い上がっていた。

「おや、クリス。随分ご機嫌じゃないか」

「……ルシア殿」

 ふと顔を見上げれば、褐色の美女がそこに立っていた。こんなに近づかれるまで気がつかなかった自分に内心舌を打つ。

「せっかくだからご一緒させてもらおうか」

 そう言って視線だけで若い騎士どもを退けてクリスの前に座った。

「アンヌ。いつものを」

 カウンターの奥に声をかければ若い女将が焼き物の瓶に入った酒を持ってくる。鉄頭の大将と飲もうという自分の族長に苦虫をつぶしながら、クリスを見ようとしないその態度。もう正直慣れていたのでどうでもいい気分で酒を口に含んだ。

「じゃ、乾杯」

 ルシアは手酌で酒を注いでクリスのグラスに勝手に合わせた。器の中の濁り酒が揺れる。それをルシアは一口でのみほした。二杯目はクリスが注いでやる。ルシアがその様を見て目を細めた。

「……珍しい事もあるもんだね」

「何がですか?」

「あんたが腰ぎんちゃくを放っておいて他の男たちと飲んでるなんてさ」

 遠ざけられた場所に座っているパーシヴァルを横目で見て含み笑いをした。

「……彼らは優秀な騎士です。無礼なことを言うのは止めていただきたい」

「そうかいそうかい。ま、そういう日もたまには必要さ。さ、そんな子どもが飲むような果実酒やめてこれを一緒に飲まないかい」

「…………」

 そういって素焼きの瓶を振る。

 クリスはグラスに残っていた酒を一気に飲んでグラスを差し出した。

「いただこう」

「いい度胸だ」

 透明なワイングラスに不似合いな液体が注がれる。あの人も飲んだかもしれない酒。クリスの唇は笑うのに失敗して歪んだ。 





 ゆっくりと沈んでいく太陽を見ていた。その赤さはもう今はないカラヤを、我が故郷をなめつくした炎を思い出させた。

 大切なものは全てそこにあった。

 自分で作った飛ばない弓。

 初めて獲った獣の牙。

 ちょっとずつためたお小遣い。

 隠しておいた美味しい木の実。大人でもなかなか取れないその木の実を、隠れてこっそりルルや軍曹と食べようと思ってた。

 今は全て燃えて灰となり、グラスランドの広大な野に散っていった。

 他愛ない罪のない悪戯をどれだけしただろう。柱の傷一つすら今はいとしく思う。

 炎の暴力。何かを焼く酷い匂い。鼓膜に響く乱暴な音。

 全てが手に触れられぬものに覆い尽くされるのを呆然と見ていた。

 今日の続きがそこにあると信じていた。

 いつも漂っていた草と大地の匂い。柱に染み付いた香辛料の香り。

 ぼくを育てた、全てのもの。

 あの炎は、僕の過去を焼き尽くした。

「……腹減った」

 禍々しいほど赤かった太陽が吸い込まれるように消え去ったころ、思い出したようにヒューゴは呟いた。今日はカラヤの料理が食べたい。足は自然とアンヌの酒場に向かっていた。

 扉に手をかけたとき、女性の声が聞こえた。この城で一番上手に自分の感情を揺さぶる声。勝手に止まった手を無理やり動かして店に入る。

 よく知らぬ騎士たちに囲まれて彼女は何時になく上機嫌のように見えた。桜色に染まった頬が艶かしい。

 何故だろう。とても楽しそうに笑っているのに。自分には見せてくれないような笑みなのに。

 周りの騎士たちにはそう見えないのだろうか? 痛々しくてたまらない。

 それを振り切るかのように煽った酒を飲み込む咽喉の動きが妙に目について、やけに苦しかった。

……砂をかむような違和感。おかしい。今の彼女はおかしい。不自然だアンバランスだ。

 そんな顔をするなと怒りに近いものを抱き、だけどひどく切なくなる。

「おや、ヒューゴ」

 それ以上そんな彼女を見ているのが嫌で立ち去ってしまおうかと踵を返したとき、後ろから来た母、ルシアにぶつかってしまった。

「どこに行ってたんだい?」

「あ、ちょっと外に……」

「これから夕食かい?」

「あぁ、うん、まぁ、ね」

 口ごもりながら言ったことに気づいたはずなのに、ルシアはその背を押した。

「今日は珍しい奴と飲んでてね。ヒューゴもおいで」

「いや、母さんちょっと……」

 抵抗しようとする息子の意思をあっさり無視して、ちょっと席を外しただけで再び乗り出してきた騎士を威厳で追いやって、ヒューゴを自分の向かいの席、クリスの隣に押した。

「…………」

 ヒューゴに気づいたクリスが途端笑顔を強張らせて、視線を逸らした。

 ……いつも。

 思う。

 この人は、強い強いと崇めたれられているけれど、だけどいつも自分の前では妙におどおどと怯えている。

 あんなに楽しそうな振りをして笑っていたくせに。自分を見た途端、その笑顔は。

 なにか無性に腹立たしくて、あてつけのようにクリスの隣にどかりと座った。彼女の体がびくっと震えたことに舌打ちをしたくなる。

アンヌにいくつかの食べ物とグラスを頼む。

「母さん、俺にも」

 苛立ちに任せて無造作に差し出せば、ルシアは含み笑いを浮かべながらも注いでくれる。その笑みがなにかひっかかったけれど、ヒューゴは無視して口に含んだ。

「ヒューゴ! 子どもが酒を飲むのは感心できないぞ……」

 隣の席のクリスが当然のように酒を飲んだヒューゴにぎょっとして、放っておけばいいのに思わず口を挟む。ヒューゴはむっとする。

「俺は一人前の戦士です。子ども扱いしないでください」

「あ、あぁ……。だが……」

 救いを求めるようにルシアを見るが、彼女はそれについて言及せず再びクリスのグラスに酒を注いだ。

「楽しい酒の席で無粋なことを言うもんじゃないよ。さ、もういっぱいどうだい」

 クリスは納得したわけでもないだろうが、それ以上何も言えず自分のグラスに視線を落とした。クリスはあれだけ浮かれていた心が急に沈んだのを感じる。咽喉を焼く刺激が急に思い出されて、その不愉快さごと一気に飲み干した。飲み終わったときに小さくけほっと咳をした。少し口元からこぼれた酒を無造作に手の甲でぬぐう。

「……クリスさん。このお酒結構強いよ。無理しない方がいいんじゃない?」

 弱い奴は飲まないほうがいい。どこか挑発するような冷たい言い方に、クリスも静かに反発する。

「……平気だ、これくらい」

 そう言ってグラスを差し出す。

「…………」

 ヒューゴは冷たい顔でクリスを睥睨し、むっとしたクリスは瓶を掻っ攫って勝手に注ぐ。

「クリスさん」

「大丈夫だから」

「ちょっと飲みすぎなんじゃない?」

 テーブルの上の空き瓶。少し危うい呂律。いつも清冽な光を放つ瞳が、今は胡乱で、それを見ていたくなくて。

「そろそろ止めておいた方がいいよ」

「放っておいてくれ」

 その声は、自分を拒絶するように冷たく。

「だけど」

「……ヒューゴには関係ないだろう?」

 その言葉があまりに事実だったから。





「……だって、みっともないよ?」

 



 その声は静かだったけれど、妙に酒場に響いた。

「……みっともない、か……」

 クリスの顔に自嘲の笑みが浮かんだ。

 傷つけた。

 その瞳に自分の言葉の威力に気がついて思わず息を飲んだ。大きい塊を飲み込んだみたいに咽喉が痛かった。

「……ごめ、俺……」

 自分で思っているよりよっぽど冷静な声がでたことに驚く。こんなに焦ってるのに、こんな静かな声がでたら相手に誤解されそうでさらに焦るのだけど、自分の顔、自分の表情が操れなくて。

 クリスは手をかざして穏やかに謝罪を遮った。

「いや、いい。確かにそうだな。飲みすぎて自分を見失っていたようだ。今日はこのぐらいで部屋に戻るとしよう」

 がたっと椅子を引いて立ち上がろうとしたが、ぐらついて机に手をついた。

「クリスさん!」

「いや、大丈夫だ。……ちょっと待て……」

 自分を襲った目眩が立ち去るのをじっくりと待ってからクリスは瞳を開いた。

「……ありがとう。もう大丈夫だ……」

 そう言って微笑むと重い足取りで歩き出した。

 扉をでるまでの短い間でさえも彼女は明らかにふらふらで、途中のテーブルに手を着き、壁に体をもたれさせながら出て行った。

「……」

 そして少年は取り残される。

 胸のうちの苦しさをどこかに吐き出したくて、ゆっくりと酒場の中を見回した。

「……あと、追わないんですか?」

 パーシヴァルにたずねた。

「今は一人になりたいでしょうから」

「でも、今のあの人ぼろぼろだよ」

 俺が傷つけたから。

 言葉にしなかった台詞をきっとわかっていただろうに、パーシヴァルの態度はあくまで大人なものだった。

「……今の姿を誰かに慰められることを、あの人は望まないでしょう」

 自分のグラスを傾けながらの冷静な言葉は、彼女に対する理解を見せ付けられているようで胸がちりちりする。

「どうしてあんなに飲ませたの、母さん」

「ん〜?」

 どこか楽しげにルシアは笑う。

「たまにはこういう夜があってもいいだろ? 酔って酔って、かぶった仮面の存在忘れるぐらい酔う夜があってもさ。クリスの顔を見たろ? いい顔だったじゃないか」

「いい顔? あれが?」

 母親の言葉が無責任なようで腹が立つ。

 ヨッパラってぐだぐだで、笑ってても痛々しくて、普段の誇り高い横顔がどこかこびるようで、だけど自分を見る瞳はいつもと同じびくびくして、……傷つけた。

「あれのどこかいい顔なんだよ」

 自分の未熟さへの苛立ちが母親に向かう。

「いい顔さ。苦しくて苦しくて仕方がないって顔だ。どん底にいる奴の目だよ」

「それのどこが!」

「どうやって這い上がってくるか楽しみじゃないか」

 心底楽しそうな母が無情に思えて怒鳴った。

「だけど、辛そうじゃないか……!」

「仕方がないだろ。本当に辛いんだ」

「…………」

 あっさりとひどいことを言う。息を呑んだ息子を見て、ふと微笑んだ。



「ねぇ、ヒューゴ。お前あんなひよっこに何を期待してるんだい?」







 世界がぐらついている。

 頭が重い。体がだるい。気持ち悪い。

 このままここに寝転んでしまえたらどんなに幸せだろうと思うが、どれだけ酒を飲んでもどうしても消えない理性の一部分がそれを許さない。

「……くそ……」

 何かに寄りかからなければ前に進めなくて、クリスは壁にだらしなくもたれかかりながら重い足を一歩ずつ前に進ませる。

 情けなくて涙が出てくる。

 歩くことすらままならない。これがゼクセンの英雄の姿か。

 苛立ちを部下にぶつけ、酒に逃げ、なんて情けない。

――「……だって、みっともないよ?」

「……その通り、だな」

 自分を見るヒューゴの顔。

 真っ直ぐな瞳。潔癖な魂の持ち主。

 その目が自分を見た。軽蔑されたかもしれない。

「それも当然か」

 くっくと肩を震わせる。

 酒に溺れて、酔いに任せて。あの少年にはとても不潔なものに思えただろう。

 ようやくホールにたどり着く。自分が与えられた船室までの距離の長さに途方にくれ、向かう先を変えた。

 正面の扉を開ければ、涼しい風が頬をさしほっとした。

 湖まで歩こう。

 そう思って一歩踏み出したつもりが、足の着き方をしくじって転んびそうになる。

「くそっ」

 言うことを聞かない自分の足を苛立たしげに殴る。神経が鈍って痛みを感じなかった。

 途中の階段は転げ落ちないようにとにかく気をつけながらおりる。こんなところで転落しだなんて情けなくて涙も出ない。

 何度も座り込みながら、ようやく湖にたどり着いた。その傍に寄ろうとして、不意に胸をこみ上げてきた不快感に慌てて木陰に走りこむ。

 苦しげにせきこみながら胃の中のものを吐く。

 胃が不自然に痙攣して、それが体に伝わって手が震える。このまま死んでしまうんじゃないのだろうかと不安になる。

 気持ち悪い。

 のどの奥から搾り出すような咳を何度もする。口の中が嫌な匂いがして泣きたい。

 生理的な気持ち悪さから涙が滲む。



 何をやってるんだ、私は。

 情けなくて、本気で泣けた。







 胃の中の物全て出して、吐くものもなくなって、胃液すら出し尽くしてなんとか落ち着いたクリスは這うように湖に向かうと冷たい水に手を浸して口をゆすいだ。

 まだ体の中の不快感は残っているが、吐くだけ吐いたので明日には残らないだろう。

 そんなことを考えながら、湖に映る自分の姿を見た。

 ……だれだ、これは。

 髪はだらしなく乱れ、瞳は胡乱として口元はしまらない。

 誰だ、この女。

 なんなんだ、この女。

「……ははっ」

 情けなさのあまり笑いがこみ上げてくる。

「ははははは。……ははっ」

 指先で小さく水をかいだら、水面が揺れて自分が崩れた。

 本当に崩れてしまえばいいのに。

 掴めぬ水を握りつぶして、大地に寝転んだ。重かった頭が大地を得て楽になり、それがいっそう情けなくなる。たまった涙が結んでこぼれた。







――「……今の姿を誰かに慰められることを、あの人は望まないでしょう」

 そう言われたってやっぱり気になって、ヒューゴはクリスの後を追った。

 彼女に与えられた部屋を訪れても、そこに彼女はいなかった。それ見たことかと慌てて彼女の姿を探す。船の中をくまなく見て、城に戻って部屋をあちこちのぞいて、外に向かう。

「……いた」

 湖の畔に彼女はいた。寝転がっていて、銀の髪が緑の草の上に広がっている。毛先が湖に届いて水面でゆれていてちょっとだけ見蕩れた。

「クリスさん」

 名前を呼ぶ時、いつも少しだけ緊張する。決して珍しいわけではないらしいその名前は彼女に与えられたことによって特別な響きを持ち、呼ぶとなぜかくすぐったい。

 美しいその人は気だるげにヒューゴを見て、つと視線を逸らした。その先は高い高い空。星の瞬きはどんな創作物より美しかった。

「……何してるの」

「休んでいた」

 落ち着いた声だった。

「こんな所で寝たら風邪引くよ」

「そんなやわな鍛え方していない。大丈夫だよ」

「……部屋に帰ろ。送るから」

「大丈夫。もう少しだけ……」

「だけど」

「……少し、一人にしてくれ」

 拒絶されたことに気づかぬ振りをして傍らに膝をついた。

「……病気になるよ」

「……なったら、お前も喜ぶんじゃないか?」

「……なにそれ……」

 言った意味がよくわからなくて、だけど何か酷いことをいわれたような気がして問い返したが、クリスは唇を歪めただけで答えなかった。

「……なんでもない。忘れてくれ」

「忘れろって、そんな余計気になるじゃないか」

「戯言だ」

 そう言って、何かを吹っ切るようによっと勢いをつけて上半身を起こした。その途端、吐き気がしたのか口元を押さえて咳き込む。

「……! クリスさん!」

「…………。……大丈夫。平気だ」

 衝動が去ったのをたしかめてから、クリスは言う。だが、月の光も手伝って、その顔が酷く青ざめているように見えた。

「……部屋、帰りましょう」

「大丈夫だ。一人で帰れる」

 そう言って立ち上がろうとするが、足がふらついて上手に立てない。

「ほら、一人じゃ無理だよ。送るから……」

 そう言って手を貸そうとしたが、その手を振り払われた。

「……クリスさん」

「……大丈夫だ。大丈夫だから……」

 クリスはヒューゴの肩だけ借りてそこに手を置き何とか立ち上がるとゆっくりと歩き出す。だが、その足元も覚束ず、すぐに膝をつく。

「……ねぇ、何やってるのさクリスさん」

 クリスの背を見ながら言った。

「ねぇ、何やってるの、クリスさん。そんなぼろぼろになってさ。一人で歩けもしないでさぁ。そんな背中、そんな背中……」

 美しいその人は振り返らず、答えない。歩く足取りはやはり重い。

「ねぇ、クリスさん……!」

 振り向いてはくれない人に呼びかける。

 どうして、こんなに友の仇の名を呼ぶ声がこんなに切実な思いをもって響く。

 どうして、名を呼ぶだけで胸が苦しくなる。

 どうして。



「ねぇ、クリスさん……!!」





 彼女が振り返った。翻った銀の髪が月の光を弾いて綺麗だった。女神様みたいだった。

 なのにその瞳だけが、辛そうに光っている。



 

 彼女は、笑った。



「……そんな目で、私を見ないで……」





「……クリスさん……」

 自分の声の弱弱しさが、我ながら信じられなかった。むしろ、普段騎士に檄を飛ばす自分の方が作り物なのかもしれない。ヒューゴの戸惑う声を聞いてそう思った。

「そんな目で私を見ないで。……もう、やめて……」

 惨めな姿だ。酒に溺れ、その勢いで少年に身勝手な懇願をする自分。

「……俺、何かした……?」

「……お前の瞳は、いつも私を責める。私が死ねばよかったと言っている」

「べ、別に俺そんなこと……!」

「……お前は、いい子だよ。ヒューゴ」

 右手を外して、涙にぬれる瞳で少年の瞳をとらえた。その声はいっそ穏やかで、だからこそ悲痛だった。

「その心根は優しく、その魂は高潔だ。……いい目をしている。ヒューゴ。あなたと共に戦えることを誇りに思う」

「そ、そんなこと……」

 ストレートな賞賛に思わずヒューゴの頬に血が上る。だが、その浮かれそうになった心に冷たい一撃が降りる。

「そして、その目が言うんだ。お前が死ねばよかったと」

「……え……?」

 表情を凍りつかせる少年に気づかぬわけでもないだろうに、白の乙女は言葉を続ける。

「その優しさが卑劣を許さない。その高潔さが、……私の醜さを許さない……」

 それでも何とか笑おうと唇をゆがませたときに、こわばった頬を一粒の涙が結んで落ちた。

「その綺麗な瞳が、いつも私を責め立てる。お前が死ねばよかったんだと……」

「俺、そんなこと……」

「かの少年の生存を願う言葉は、そのまま私の生を呪う。あの少年が生きていたら、きっとその時死んでいたのは私なんだ」

「クリスさんは強いじゃないか……! あなたなら、あなたならルルを殺さなくったって自分を守れたはずだ」

「お前は相手の慈悲を期待しながら相手に切りかかるのか?」

「っ! だけど!」

 その時自分は笑っていたけれど、それが酷く醜く相手に映っていたであろう事は容易に想像できた。

「私は死にたくない。そしてお前の瞳は私がそう望むことすら浅ましいと責める」

「そんなこと思ってない!」

「そういうことなんだよ、ヒューゴ」

 こんなことを言って何になるというのだろう。

 戸惑う少年の顔を見ながら内心笑っていた。

 潔癖な少年に混乱をもたらして、それで溜飲を下げる気か? 

 幼いかけがえのない友を失いながらも必死に耐え、仇の私と共に戦ってくれているその優しさを踏みにじる気か?

 今更生まれた思いではないのに、どうして今少年に訴えているのだろう。

 ……あぁ、父さんだ。

 ふと、答えに行き着いた。

 辛いとき、いつも心の中の父に話しかけていた。思い出の中の父は、もう口元しか思い出せなかったけれど、いつも穏やかに微笑んで醜い思いも汚い感情も全て受け止めてくれた。

 急に現実になって彼の死が思い出される。

 あの人は、もういないんだ。

 涙が、ぼろぼろとこぼれた。

「自分を守りたいと思ってはいけないか? 死にたくないと思うことが罪か?」

 父が許してくれた感情を、この少年にぶつけるのは筋違いだ。わかっているのに。

「……クリスさん……」

「ヒューゴが誠実であればあるほど、辛くなる。気高いお前が私の死を望んでいる。……私の生を、否定される……」

「違うよ。そんなんじゃ、そんなんじゃ……」

 少年の瞳に傷ついた光が浮かぶ。やっぱりヒューゴの瞳は綺麗だなとと場違いなことを思った。

「なぁ、ヒューゴ。知らなかったか?」



 あぁ、父さん。

 クリスは笑う。こぼす涙もそのままに。





「私も刺されると死ぬんだ」



 あなたは、もういないんですね。











 胸に穴をうがたれたような、激しい衝撃。

 そんなの知ってるよ。

 当たり前じゃないか。

 あぁ、声がでないよ。

「……弱い者が、酒など飲むものではないな。今日の私はどうかしてる」

 自嘲の笑みを浮かべて髪をかきあげた。

 俺の胸にこれだけ衝撃を与えたくせに勝手にこの話を閉じようとしていることに気づいて焦るけど、でも声がでなくて。

「すまない。私はまだ歩けそうにない。勝手を言ってすまないが、ヒューゴ先に城に帰ってくれ」

「……やだよ」

「ここにいても、私はお前を傷つけるだけだ。歩けない私を憐れんでくれるなら、お前が去ってくれ」

「やだってば」

「……ヒューゴ?」

――「あれが、今のクリスだろ」

 そんなの認めたくなくて。

――「ねぇ、ヒューゴ。お前あんなひよっこに何を期待してるんだい?」

 これを、期待だなんて思いたくなくて。

「勝手に話し終わらせないで。クリスさん勝手だよ」

「……あぁ、すまない。わかってる」

「わかってないよ、全然わかってない……!!」

 感情が勝手に先走って、上手く言葉に出来ない。

 こんなことを言いたいわけじゃない。

 責めたいわけじゃないんだから、そんな顔をしないで。

「……そんなこと、思ってたわけじゃないんだ……」

 憎いけど、許せないけど。

「そんなことを思ってたわけじゃない」

 母親をグラスランドの盗賊に殺されながらも、自分をかくまってくれたトーマス。

 自分の村を焼かれながらも、いつもニコニコ笑って収穫物を分けてくれるバーツ。

 ルルを失いながらも、イクセの村を案じたルース。

 本当は俺もそうありたくて、だけど、出来ない。

 目の前の女性が苦しんでいることなら俺だってわかっていて、だけどそれを許してしまったらルルの死すらきっと許してしまう。

 怒りが消えてしまうことが怖い。

 許してしまうことが怖い。

 だけど。

「貴女の死を望んだことなんて、一度もないんだよ」

 ならば、何を望んでいたのだろう。

 クリスの正面に座り込んで、そっとその頬に手を伸ばした。

 突きつけた剣に込めた怒り。それが望んだものはなんだったんだろう。

 彼女が死ねば、俺は満足したのだろうか。

「……そんなつもりじゃないよ。そんなつもりじゃないんだ」

 我知らず、彼女に呪いをかけていた事がショックで。

 頬に当てた手の平が感じる、彼女の涙が熱いことがショックで。

 気がつけば、自分の目も熱くなっていた。

「……貴女のことを大切に思っている人達がいるのを知ってるよ」

 優しい瞳で彼女を見つめる人たちがいる。彼女が笑うととても幸せそうに目を細める人たちがいる。

「その人達に同じ思いを味わせたいわけじゃないんだ」

 ヒューゴはクリスの手を握った。

「……貴女を、そんな目にあわせたいわけじゃないんだよ」



 自分を見る時のおどおどとした表情。その弱さが許せなかった。

 彼女の強さを一番求めていたのは自分だった。

 その願いが彼女を追い詰めた。

 緩慢な動きで、クリスの指に自分の指を絡めた。

 上手に言葉の浮かばない頭で、それでもどうにか許しではないもので相手を癒したくて。

 ここにいたのがパーシヴァルやナッシュだったらきっともっと上手にこの涙を止めて上げられるのだろうに、だけど今彼女の目の前にいるのが自分でよかった。彼女の手を握れるのが自分でよかった。



 彼女の乾いた心を、慈悲ではないもので満たそうと強く強くその手を握り締めた。

 彼女が顔を上げる。間近に藤色の美しい瞳があって、そこに自分が映っていた。

 

 あぁ、そうだ。



「……貴女が、好きなんだ」

 

 許しでも慈悲でもないものが思い浮かばなくてどうしようもなくて、だからそっとその目元に口付けた。

 彼女は信じられないものを見たように目を見開いて、薄く唇を開いた。

 何か言おうと動きかけた唇に、誘惑に抗いがたく自分のそれを重ねる。

 彼女の瞳からぼろぼろ涙がこぼれ落ちて、それが可哀想で仕方なくて唇をそれに押し当てた。

 あまりにしつこかったからだろうか。彼女は途中からクスクス笑い出した。

「……何で笑うの」

 少しふてくれて聞く。

「だって」

 

 クリスは泣きながら微笑んだ。



「……父さんみたい」







 嬉しそうに笑った彼女になぜか少しだけむっとした。

 その感情の名は、今は知らない。










from 幸福詐欺師