「クリス」

 名を呼ばれるのが嫌いだった。

「お前最近顔色が悪いぞ」

 話しかけないで欲しい。

「しっかり寝てるのか?」

 仮初めの優しさなど誰が欲しいと言った?

「ルイスが心配してたぞ。少しは休まないと自分がつぶれる」

 同情など欲してない。

「おい、クリス、聞いてるのか?」

 ふと伸ばされた手を、私は払った。





 救いようのない恋。





「クリス……」

「……触るな」

 目の前の金髪の男――ナッシュは小さく目を丸くした。自分の執務室だというのに、逃げ出したい感情に襲われる。

「……どうかしたか?」

「別に何もないよ。お前に話すことなどないだけだ」

「そいつぁ……」

 厳しいとおどけて言う目の前の男が本当に苛立たしくて。

「……もう、私に関わらないでくれないか」

「どうして?」

「理由などない。お前が嫌なだけだ」

 目を逸らして窓辺に歩いた。彼は怒って部屋を去っていくだろう。それでいい。

 唐突に現れて、私をグラスランドに導いた男。カミサンがこわいと言いながらも自分をからかい、どこに繋がりを持っているかわかりはしない。その正体はハルモニアの工作員。何をどこまで信じていいのかわからない。



 一番嫌なのは、その目だ。

 自分の弱さも本音も何もかも曝け出されそうで怖くて。

 きっと甘やかしてくれるだろう。

 弱さを受け入れてくれるだろう。

 その許容を、自分のプライドが許さない。

 だから、もう終わりにしよう。



 クリスは瞳を閉じて足音が去っていくのを待った。だが、その足音は去っていかない。逆に近づいてくる。

 驚いて瞳を開くと、窓に映ったナッシュと目が合った。慌てて振り向こうと思ったその時、後ろからナッシュの手が伸び窓枠についた自分の手に重ねられる。それだけで動けなくなった。

「……何」

「いやぁ? こぉのお姫様の心が見えないからこっちに聞こうかなと思って」

 ナッシュの骨ばった手が、クリスの手首の上を這った。脈を探られる。ぞっとした。

「止めっ……!!」

 背筋がぞわっとして、振り返ってその手を振り解こうとしたが、体勢は自由になったもののとられた手首だけは放れない。

「放せ……!!」

「ほぉら、やっぱりドキドキしてる」

「手を放せ!」

 両手でナッシュの手を解こうとするが、ナッシュは片手だけでクリスの手首を掴みびくともしない。不意にその手が高く引き上げられる。クリスより上背のある彼に引きずられるように体勢が崩れた。そこにぬっとナッシュは顔を近づける。緑色の瞳が間近に迫る。息が詰まった。

「おじさんは嘘のプロだから、他人の嘘もすぅぐわかっちゃうんだよ」

 目が笑ってなくて、怖かった。

「つっても、クリスの嘘なら誰でもわかるか」

「手を、放して」

 だが、その手首は窓に押し付けられ自由は訪れない。耳元に口が寄せられた。

「でも、冗談でも傷つくからもうそんなこと言わないでね」

「嘘でも冗談でもな……」

 言葉の途中でもう片方の手も捕らわれ壁に押し付けられた。

「だぁからおじさんに嘘ついても無駄なんですってば」

 髪に何か柔らかい音が押し付けられた感触と湿った音。クリスは耐え切れず腕だけ残して座り込む。

「……お願い。……放して……」

 頭上から困ったようなため息が聞こえて、ようやくクリスの手は自由になった。うつむいた彼女の目の前に男が座り込む気配がした。

「……何かあったか?」

「……あったもなにもない。お前が嫌いなだけだ」

「俺、あんたに嫌われるようなことしたっけ?」

「全てが嫌だ」

「……きっついなぁ」

 ナッシュが苦笑したのがわかった。それに腹が立つ。

「お前はいつもそうやって本心を見せやしない。いつも高いところに立って人を、自分すら見下ろしている。そのくせ私の中にずかずか入ってくる、私にはそれが許せない」

 耐えられなくなって、瞳が熱くなる。

「何時かいなくなるならこれ以上私の中に入ってこないで! 私のものにならないなら――」

 俯く。床に涙が零れ落ちた。

「私に、近づかないで……」



 部屋に押し殺した嗚咽が響いた。

 ナッシュは困ったように髪をかきむしった後ため息をついた。どこか道化た仕草。もう、彼はその演技をやめられはしないのだろう。そしてそれを許せない限り、心が通うことはきっとない。

 だから私はナッシュを嫌いになる。



 なのに。



 首筋に差し込まれた手。髪を一度梳く。

「悪いな」

 その一言だけで背筋が粟立つ。





 ナッシュは立ち上がり、部屋の外へと出て行った。

 取り残されたクリスは、部屋に一人ただ座り込み、地面を叩いて嗚咽を漏らし続けた。






from 幸福詐欺師