銀糸





 「憎む」という感情があることは知っていたけれど、実感として自分のものにしたのはつい最近のこと。

 思い返すたび揺り返す、臓腑をえぐるような感情。この痛みを覚えているうちは、確かにあの少年は自分のうちに生きていると、何度もたしかめるようにその痛みに身を浸す。

 苦しくて痛くて辛いのに。なのにどうして甘いのだろう。





「……なぁ、ヒューゴ。それもう癖になってるよな」

「……え……?」

「そうやって振り返るの、さ」

 ジョー軍曹に言われてもしかしたらそうなのかも知れないと気がついた。

 俺の視線の先には、初めて憎んだ人の銀の髪が映っている。

 俺を見てあの人が微かに眉根を寄せるのはいつものこと。そしてその一瞬を恥じるかのように無表情を取り作るのも、無言ですれ違うのも何かの決まりごとのように繰り返される。どうやら振り返ってその後姿を眺めるのまでその儀式の一部のようになっていたらしい。

「……あぁ、だって、カラヤにはない髪の色だから」

 初めて見る髪の色だから、だからそれが珍しくて振り返るだけだ。

 あの髪は月のよう。

 日が落ちると輝き始める濃紺の天鵞絨につけた爪跡のような金の三日月でなく、夜中一人孤独に光る満月の光を寄り合わせたような。

 あの人は憎いけど、だけどあの髪には目が惹かれる。

 だけどそれは珍しいからで、今まで近くになかった色だからで、だからいいよね?

 もう答えないとわかっている友に呼びかける。

 

 だから、いいよね?





 その日の夜、俺は酒場に繰り出してしまった軍曹を置いて一人で風呂に出かけた。夜通ると一層不気味な墓地を横切って船にわたり、足音の響く階段に気をつけながらそれを登りきるとぽっかり浮かんだ満月に出会った。なんとなく、タイミングがタイミングだったので気恥ずかしくなりながら風呂場へと足を向けると、さらにいいんだか悪いんだかなタイミングでその人を見つけた。薄紫の瞳が小さく見開かれる。

「……ヒューゴ」

 名前を呼ばれるといつも少しぞくっとする。耳障りのいい声には少し怯えが含まれて居心地が悪い。

「お風呂、ですか?」

「あ、あぁ、今出たところで……」

 ここまで明らかに目があってしまうと、無視して通り過ぎるのも躊躇われて声をかけた。クリスさんはどこか気まずそうに視線を逸らしてどもりながら答えた。

 風呂上りで私服の彼女は、昼の硬い甲冑から開放され、妙に無防備に見えた。髪を洗ったのだろう、無意識のうちに肩にかけたタオルで残る水気を拭っていた。

「……あの、いい夜ですね」

「え? あ、あぁ、そうだな」

 何を話せばよいかわからなくて苦し紛れに出した話題は彼女の無粋な返事で簡単に途切れた。気まずい沈黙が落ちる。

 どうやってこの場を逃げようかと俺は俺で視線を彷徨わせた時、クリスさんが小さくくしゃみをした。

「あ、ごめんなさい、引き止めちゃって。湯冷めしちゃいますよね」

「あ、あぁ、いや、うん……」

 何を言いたいのかよくわからない曖昧な返事だったが、立ち去るきっかけが出来た事に向こうもほっとしたようだった。もう一度軽く頭を下げてすれ違う。そして、行われる儀式。

 確かに癖になっている。とても自然に振り返り彼女の背を見ていた。

 結わずに流した洗いざらしの髪。濡れいているからだろうか、その銀の髪はいつもより濃く見えた。

 月の光を弾いて煌くそれは朝方張る氷のように見えて、気がつけば手が伸びていた。

「ヒューゴ……!?」

 びくっと震えた背中にかまわず髪を一房すくう。しっとり濡れたその髪はしなやかな感触がより一層感じられ、それが気持ちよくて放しがたかった。

「な、何……?」

「……不思議な髪だよね、クリスさんの髪……」

「え……?」

 クリスさんが戸惑っているのには気がついたけれど、それよりも今は俺の手の中にある色と感触に心が奪われて。

「ねぇ、ゼクセンにはこんな髪をした人がたくさんいるの……?」

 クリスさんの瞳を真正面からとらえて言う。彼女の視界に自分しかいないという事実。見開かれたその鉱石のような瞳に月の光が混じる。

 目が奪われて、自分の居場所をがわからなくなる。

 目の前の女性が何か精霊の化身のように思えた。



 やばい、持っていかれる。

 頭の端で警鐘がなるが、自然と指は髪を頬へ伸びた。まだ温もりの残る頬。

 やめて。

 駄目だ(だってそれは裏切りだ)



――ルル……!!

「ヒューゴ!」



 友の名とその声は同時に重なった。

 ……大丈夫、まだ痛い。

 するっと俺の手はクリスさんの髪からすべり落ちた。

「……ごめんなさい。風邪引きますよね。……おやすみなさい……」

「ちょ、ヒューゴ……!」

 背後から投げかけられる声を無視してうつむいて走り、風呂場に逃げ込む。ゴロウへのあいさつへもそこそこに脱衣所に駆け込み服を脱ぎ捨てて風呂に飛び込んだ。

 頭を冷やしたくてもゴロウさん管理のお風呂はとてもいい温度で、余計頭に血が上る。

 なにかが苦しくて、涙がこぼれた。





 大丈夫だよね? 痛いよね?

 心の中にある怯えから目を逸らすように何度も何度も痛みに浸る。

 大丈夫。憎しみはまだ俺の中にある。

 大丈夫。だってこんなに痛い。

 ただ、あの髪が珍しかったから、それだけだから。

 

 だから、いいよね……?





 心の中の友は、何も言ってはくれない。

 そして、俺は今日も振り返る。

 


from 幸福詐欺師