Memories

 

「……きっもちよかったぁ」

 馬の上でずっとはしゃいでいた少女は城の見える小高い丘に馬を止めるとひらりと降りて草原に寝転んだ。

「お体の具合は大丈夫なんですか?」

「うん。体の方はもう全然。この一週間先生に止められてたから体ろくに動かせなかったんですけど、でも明日からは稽古もはじめていいって」

「そう、ですか」

「全然動けなかったから体鈍っちゃって。マイクロトフさんもお強いんでしょう? 今度一度手合わせお願いします」

 ……前もこんな会話をした事がある。手合わせを渋る自分に問答無用で殴りかかってきて結局そのままズルズルと一緒に稽古をするようになってしまった。

 あぁ、その時にもこう言った。

「……女性相手に剣をふるうなど騎士のする事ではありません」

「え〜、平気ですよ。私強いんですよ?」

 痛い。

 その言葉もあの時と同じで、だけど確実に違う事が確かに一つある。

「スズメにもジョウイにも負けないんだから」

 

 それは「今」を知らない、俺の見たことの無い笑顔。

 初めて会った日から、彼女は軍主の姉だった。

 

「……今だ、実感がわかないんですよ」

「え?」

 なんの躊躇いもなく「ジョウイ」と呼べる、その笑顔。

 明るく温かく、なんの翳りもない。

 きっとこれが本当のナナミ。嘘偽りのない、本当の心からの笑顔。

「貴女が、貴女が全て忘れてしまったなんて信じられないんです」

 ナナミは上半身を起こしてマイクロトフを見上げた。

 逆光を浴びているその青年の顔はよく見えず、何故か震えた。

「……私別に全部忘れた訳じゃないです……」

 何に怯えてるんだろう。答えながら思った。

「でもあなたが失ってしまった記憶が俺の知ってる全てなんです」

 

 

 柔らかい風が吹き抜けていく。湖の上を抜けてくる風がこんなに気持ちいいなんて知らなかった。

 目が覚めてから自分は初めてのことばかり体験している。

 ハイランドの外に初めて出た。

 湖の見える部屋でびっくりした。しかも警護の人までついている。

 シュウさんとか言うあんなにえらそうに敬語を使う人にも初めて会った。

 そうそう、ハイランドのえらい将軍さんにも会っちゃった。怖い顔で優しく豪快に笑った。

 ここではスズメがえらそうだ。あの子が年上の人に命令出してて、年上の方になんて事を言うのと頭を叩いたら回りに笑われた。本当に偉い人になったらしい。近所のガキ大将にいじめられてピーピー言ってたあの子を見せてあげたい。

 お城と言う所に入ったのもそういえば初めてだ。たくさんの人が住んでいてびっくりした。これならいつでも誰かいて淋しくないなと思った。毎日がお祭りみたい。きっと楽しい。お祭りの日だけは皆優しくしてくれた。だけど……。

「……目覚めてからいろんな人が話しかけてくれるの」

 ナナミは他にどうしようもなくて笑った。

「元気かとか果物持ってくかいとか一緒に遊んでとか、いろんな人が」

 私なんでこの人にこんなこと言ってるんだろう。

「だけど私その人達のこと誰も知らないの」

 

 なんで私泣きたいんだろう。

 

「マイクロトフさんの言う通りです。私は怖い」

 湖の輝く水面を見つめて少女は言った。

「私は物心ついた時からキャロと言う所で育ちました。小さな町です」

 目蓋を落とした。その裏にその町が浮かんでいるのだろう。

「穏やかでありふれた、小さな町」

 ナナミは伸ばしていた足を斜めに折って引き寄せてて綺麗に揃えた。

「都市同盟と戦っているのはもちろん知ってましたけど、でも御伽噺の中みたいに現実味がなくて」

 手の平をぼんやりと見つめて言った。

「兵隊さんなんてろくに話した事もありません。あの人達いつも威張ってて何かしたらぶたれるんじゃないかっていつもビクビクしてた。怖かった」

 肺の中の息を静かに細く吐き出した。

「……今でも怖いです。あの人達が本気になったら私はきっとスズメたちを守りきれない」

 「たち」に含まれているもう一人の面影にマイクロトフは胸を痛める。

「ここの傭兵さんたちが悪い人じゃないのはわかってます。皆すごく優しくしてくれます。……だけどやっぱり怖くって……」

 少女の瞳から一粒涙がこぼれた。

「子供達についてもそう。ひどいでしょ、私。あれだけ慕ってきてくれるのに嬉しさより戸惑いの方が大きいんです。なんで私なんだろうって。」

 遠くを見つめる少女の髪を風が優しく揺らした。

「……私養子なんです。ううん、別にそれ自体は全然かまわないんですよ? すごく幸せだったから。だけど、それのせいで結構、……そのやな事とか言われてたから、なんで子供たち寄って来てくれるかわからなくって……」

 それでも笑っている自分が可笑しい。

「商店街の人達も皆優しくしてくれます。本当に優しいんです。なのに私なんか構えちゃうんですよ。もし影で笑われてたらどうしようって。また影で嫌なこと言われてたらどうしようって……」

「……ナナミ殿……」

「……怖いんです……」

 途方にくれたように呟いた少女が痛ましくてマイクロトフは傍らに膝を落とした。

「……ばれちゃうよ……」

 顔が近くなったマイクロトフに微笑む。

「……このお城にいたナナミはなんだかすごくいい子みたい。私じゃないってばれちゃう……」

 綺麗な涙がぽろぽろっとこぼれた。

 

 

 夢を見ているのじゃないかと少し思う。

 だってここは優しすぎる。

 いろんな人が私を気にかけてくれる。心から心配してくれる。一生懸命怒ってくれる。

 じいちゃんが一生懸命与えてくれたものを皆が分けてくれる。

 幸せだと思う。人に気をかけてもらえることで、こんなにも心が満たされることを初めて知った。

 だけど怖い。

 自分の体が変わった事に気づく。今までだってしっかり稽古を重ねていたつもりなのに、前よりずっと実用的な筋肉がついている。

 私が知らない一年に一体何があったのだろう。

 随分くたびれた三節棍。

 きっと自分で直した服の綻び。

 ……私の知らない体の傷。

 この体の持ち主は誰?

 皆に愛され、きっと笑っていたその子は、誰?

 

 

 目の前に立つ騎士が憐れむような瞳で自分を見る。

 優しい人だと思う。ぶっきらぼうで素っ気無い口調が少し怖かったけど、馬に乗せてくれた手は優しかった。

 ゆっくりと地に膝をつけたマイクロトフが、その手を頬に伸ばした。

 その手の温もりがありがたくて涙がまたこぼれた。

 だけど。

 頬に当る手に自分の手を重ねた。

 その人ですら夢だとは言ってくれない。

 


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