癒えぬ傷がある。

 癒しえぬ、傷が。

 

甘い痛み




「エイリーク様が倒れた?」

 そのニュースが届いたのは、野営場所を定め陣を張り、ようやく一息ついたときだった。

「熱が出たとのことです。過労のようですね。今、ラーチェル様が様子を見てくださっています」

 ゆっくり休めばすぐによくなると言ってましたよ。

 伝令の兵士の言葉に詰まった息を吐き出した。

「そうか。早くよくなってくれればよいが」

 走り去っていく伝令の気配を感じながら、エイリークがいるであろう天幕のほうを振り仰いでゼトはボソッと言った。

 過労。仕方のないことだろう。

 味方が増え、随分楽になってきたとはいえ彼女にかかる責任は重い。

 どこか、そこら辺に見舞いと称せるような花は咲いていないだろうか。ゼトは辺りを軽く見回し、そして自己嫌悪に陥る。陣営が大きくなり、ゼトには将軍としての仕事が増え、エイリークだけを守っていればよかった時間は終った。エイリークの直接の護衛は今は別の者がやっている。お互いに忙しくなり、個人的に話す時間は減った。

 だからと言って、何か口実を作らなければ顔を見に行くことも出来ぬほど、自分の力は弱いものではないはずだった。

「……エイリーク様」

 それはルネスの希望の名前。

 混乱にあえぐ民の、最後の光。

 優しく凛々しいその姿。兵士たちの尊敬を集め、前線で戦い続ける人。

 だが、ゼトは知っていた。

 その体は剣を振るうにはあまりに細いことを。

 華奢な肩を抱き潰してしまわないか怖かった。腕の中で震えるその体があまりに不憫で、あまりに愛しくて。

 今でも迷うことがある。

 あのままどこかへ逃げてしまった方が、あの少女にとって幸せではなかったのではないかと。

 優しすぎるあの少女は、これだけの戦歴を重ねてなお、人を殺めることを恐れている。戦いが終わった後、執拗に手を洗っている姿は痛ましい。

 熱が出て辛いのだろうが、このまま倒れたまま戦いに出られない方がいいのでは、など愚につかぬ事を考える。

 ゼトの足は自然とエイリークの天幕へと向かっていた。

 何か口実を作らなければ顔を見に行くことも出来ぬほど、自分の力は……。

「……本当に?」

 ふと、自分が酷く傲慢な気がして、呟いた。

 それでも、足は止まらなかった。





「失礼いたします。エイリーク様のご容態はいがかでしょうか」

 一声かけてから天幕に入る。治療に当たっていたのであろうラーチェルと、見舞いに来ていたらしいターナが振り返った。

「……ゼト?」

 その二人の向こう側から主君の声が聞こえてきた。近寄ってみると、厚く引かれた布団の上に横たわるエイリークの姿が見える。

 頬が紅潮し、熱に瞳が浮かれている。ゼトが来たのが嬉しかったのだろう、普段なら理性で押さえてみせる表情だが、今は見ているほうが気恥ずかしくなるぐらい嬉しげに微笑んだ。

「大丈夫ですか? エイリーク様」

「えぇ。少し熱が出ただけです。ゆっくり寝れば大丈夫です」

 歩み寄り傍らに膝をつき、熱を測ろうと何気なく手を額に伸ばし、そのことの不遜さに気付いてさっと手を引っ込める。

「あ、そうだ。私たちこの後ちょっと用事があるんだった!」

「え? そんなものありましたっけ?」

 わざとらしい台詞口調で、ターナはパンと手を打った。ラーチェルは訝しげに眉をしかめたが、ターナは強引にラーチェルの腕を掴んで立ち上がり天幕から出て行こうとする。

「ごめんなさい、私たち少し席をはずすので、エイリークの様子を見ていてくれますか?」

「え? いや、ですが……」

「いいから。お願いね、ゼト将軍。それじゃ!」

「ちょ、ちょっとターナ? どういうことですか?」

 不満を言うラーチェルを強引に連れ出し、二人は去って言った。

「……まいったな」

 妙な気の回され方をしたことに気付いて、ゼトは口の中だけで呟いた。テントの中に静寂が落ちる。エイリークの少し苦しげな吐息だけが響いていた。

「……まだ、苦しそうですね」

「……少し」

 紅潮した顔で苦笑する。

 その熱を確かめたくて、席をはずしてもらえた恩恵を受けることにして額に手を伸ばした。

 触れてしまえば、その熱よりもその肌の滑らかさが気になってしまう。頬にまで触れてしまいそうになる誘惑を必死に押さえて、熱をはかる。

「まだ、随分熱がありますね」

「ラーチェルがよく聞く薬湯を煎じてくれました。直によくなります。大丈夫ですよ」

 熱を押して微笑んで見せるのがいじらしく、ゼトは痛ましげに眉をひそめながら微笑を返した。

 触れ合ったところに名残を残しつつ手を離そうとすると、エイリークが小さくあっと呟いた。

「……エイリーク様?」

「ゼトの手、冷たくて気持ちがよいのです。もう少し……」

「布を当てますか? 冷水を貰ってきましょう」

「いいえ。……ゼトがいいです」

 気持ちよさそうに瞳を閉じて、夢見るようにエイリークは呟いた。その顔があまりに幸せそうで手が離すのが可哀想になる。だが、これ以上その肌に触れていては、何か取り返しがつかなくなってしまいそうで、ゼトはそっと手を引いた。

「……ゼト……」

「……水を、貰ってまいります」

「待って。水はいいから……」

 熱でかすれた声でエイリークは言った。

「少し、手を繋いでいてもらえませんか。少しでいいんです。少しでいいから……」

 布団から手を出して、ゼトへと伸ばす。熱に潤んだ瞳に見つめられてそれを拒めるほど、ゼトは非情にはなれなかった。

 何時もは手袋に包まれている小さな手、その素肌に触れる。少し熱かった。

「……ゼトの手は大きいですね」

 この手が私を守ってくれました。

 幸せそうに瞳を閉じ、小さく囁かれた。ゼトは指を絡めるようにその手を握り締めた。

 褥に広がる、空を映したような美しい髪。過酷な進軍にすっかり痛んでしまったとターナにこぼしているのを聞いてしまったことがある。

 ルネスの王女。

 大勢の人に傅かれ、愛情を注がれ、宝石のように大切にされてきた彼女は、だが驕り高ぶることなく、人を愛せる女性に育った。それは奇跡に近いような気すらする。

 世界中に誇りたくなる。

 自分が仕えるその人は、かくも偉大なのだと。かくも素晴らしいのだと。

 その気持ちに偽りはない。だけど同時に考える。

 誰にも見せず教えず、苦しみの見えない場所に連れて行けたら、この少女を苛む憂いから隠し通せたら。

「ねぇ、ゼト」

「はい」

 もう眠そうな声でエイリークは言った。

「私は、とても幸せですね」

「……え……?」

 瞳を閉じると、その繊細な睫の長さがよくわかる。

「あんな、絶望から始まった旅だったのにですよ? たくさん仲間が出来て、兄上も生きていて共に戦える」

 口元に浮かんだ笑みは、本当に幸せそうだった。

「……ラーチェルは、風邪を引いた私を本気で叱ってくれました。こんなこと言ったら怒られるでしょうけど、……私……嬉しくて……」

 睡魔が訪れてきたのだろう。エイリークの言葉が不鮮明になる。

 ずきっと、傷が疼く。

「……私は、幸せ……す……」

 傷が

 ゼトは指をはずし、その手ごと包み込むように握り直した。

「……この手が、何時も……導いて……、くれました……」

 その声が、憧憬というには少し甘すぎる響を持って囁く。

「ねぇ、ゼト……」

 エイリークの眦から、涙がつとこぼれた。

 傷が痛い。

「貴方の手が、あと少し小さければ……、……私……、……んなに苦しく……」

 ふと、手の力が抜けた。唇からもれる安らかな寝息。

 己を静止するものを総て失い、ゼトは意識なき主の手をおし抱き、唇を押し当てた。

 滑稽だ。あまりに滑稽だ。

 この方は仕えるべき主。懸想することすら恐れ多い。頭ではわかっている。

 一回りも年下の少女だ。自分に寄せる想いなど、淡く5年もすれば話の種になるような、そんなものに違いない。

 なのに、自分を見つけたとき、この少女は本当に嬉しそうに笑うから。

 幸せそうに駆け寄ってくるから。

 無条件に寄せられる信頼、それがただ愛しい。





 癒しえぬ傷があった。

 一生癒えぬであろう傷。

「……癒す気など、ないくせに」

 渇いた笑いが響いた。

 告げられぬ思いなら、ずっと甘く痛んでいればいい。

 少女も同じ苦しみに喘いでいる。

 ならば、それでいいではないか。

 暗い満足感に、ゼトは自嘲の笑みを浮かべた。





 手を放し、肩が冷えぬように布団の中に戻す。

 涙と拭うと、まだ温かかった。

 ラーチェル様に、冷水を持ってきていただこう。

 冷静な将軍の顔に戻って、そう思う。自分がやるべきことは山のようにあった。何から片付けるべきか頭の中でリストを作りながら、天幕を出るとき一度だけ振り返った。

 ゆっくりと上下する胸元を見やってから、外へと足を踏み出した。



 

 本当は、彼女が欲しかった。

 


ゼト視点。

この二人の両思いなんだけど恋人ではないという距離感が好きです。

エイリークからゼトは好きで、ただ好きでって感じなんですけど、ゼトからエイリークだったら愛しいって表現がしっくり来るかなぁという気がします。年上故の葛藤と言うか。

ゼトとナターシャのA支援だとしっかりプロポーズしてるあたり、根本的にはヘタレでないであろうひとが、エイリーク相手だと一線引いてしまう辺りが生粋の騎士という感じがして燃えてしまいます。