勝ちたい。

 願うことはそれだけなのに。







 熱。







「……何やってんだ、こんな所で……」

 雨煙る昼下がり、ヘクトルは大木の下で方膝を抱えたリンを発見して、安堵のため息をつきつつ言った。リンディスは返事をせず、口元を膝を抱えた腕に埋めながら静かな瞳で地面を見つめていた。

「帰るぞ」

「……」

「リン」

「…………」

「……ケントが心配してたぞ」

 微かに瞳を細めたリンディスに、ヘクトルは再びため息をついた。





 リンは埋めた腕の中で唇を噛んだ。きつく、きつく。

 悔しかった。

 厚い雲が空を覆っていて、けれどもまだ雨は落ちてはこなかった朝方。習慣のようになった手合わせ。もう、一本取られるところまで習慣のようで。

 弾かれる剣。その硬い音。強く、けれど決して私を傷つけないその斧。

 私の方が早く動ける。技だって負けなしない。

 だけど、届かない。

 私の刃はどうしても固い壁に遮られ、そして今日も彼は困ったようにため息をつくのだ。

――「いい加減、諦めないか」

 彼の瞳がそう語っている。

 転んだ自分を起こそうと彼の手が自分の手首を掴んだ。自分には無い、男の筋張った大きな手の感触に愕然とする。

 届かない。

 組んだ腕に爪をつきたて、強く握り締めた。どこかに牙を立てなければ、叫びだしてしまいそうだった。 





 なんだか、もう、どうすればいいのか分からない。今まで相手してきた女とどこまで違うのだ、この目の前の少女は。

 自分を無視する少女を前にして、ヘクトルは途方にくれる。

 大体人の顔を見る度、剣を突きつけてくる女なんてどうかしている。変だ。おかしい。おかしいんだ。

 夜会で出会うお上品なお嬢様、何の話をすればいいか分からないしへし折ってしまいそうで苦手だったが、そいつらのほうがよっぽどましに思えた。

 どうしようもないではないか。

 手合わせを望んでくるのはリンディス。手加減を望まないのもリンディス。まったく改善されない関係。

 それでも、この女との接触を断つという選択肢を選べない自分を既に自覚していて、だからただため息をつく。

 自分の腕の肉に爪を立てる少女が不憫だが、こんなことを考えていることが知れたらきっと口をきいてくれなくなる。

 あぁ、なんて厄介な奴。

 ヘクトルは、そんなくだらないことを考えながらリンディスを見下ろしていた。

 大木の陰とは言え、葉の間から水滴は落ちてくる。彼女の服はしっとりと湿っていた。俯いて落ちた髪の間から細い首筋が覗いている。形の良い脚がスリットから伸びてる。男勝りで気が強くて困ったものだと感じつつ、いい脚してるなとはずっと思っていた。

 こんなにも女なのに、どうしようもなく女なのに、こいつはそれを全然分かっていない。敵視しているくせに無防備で、何も分かっちゃいない。

 分かっちゃいないんだ。

 ヘクトルは、ふと、手を伸ばした。





 ヘクトルが困っているのは分かっている。だけど、無骨なくせに優しいから私を一人にはしておけないんだ。そこまで分かっていながら、立ち去れるような優しい言い訳を作ってあげられない。なにか喋ったら泣いてしまいそうで。

 いつまでも縮まらない距離。背中しか追えない自分。

 置いて行かないでと縋れるほど深い付き合いでもない。

 ただ、焦る。

 一緒にいたい。

 別に何がどうというわけではないけれど、一緒にいると嬉しくて、この場所を失いたくなくて。

 ヘクトルを打ちのめしたいわけじゃない。ただ、対等でありたいだけなのに。方法をうまく選べなくて、結局子どもみたいに駄々をこねて呆れさせて、自分から距離を開かせている。

 どうしようもない悪循環。

 情けなくて、涙がこぼれそうになる。

 その時だった。

 ふと、暖かいものが前髪に伸びた。無骨な男の手が額に触れる。節くれ立った指が前髪を掻き分けた。

 つられるように見上げると、指越しに男と視線が合った。単純な思考回路のはずの男の、その瞳の表情が読み取れず不安になる。

「ヘクトル……?」

 自分の声のか細さにびっくりした。震えなかったよねと自分に問いかける。

 その手は前髪から横に流れ、後ろ髪へと移った。その時、微かに頬に触れて男の熱がそこに残る。

 ゆっくりとぬれた髪を梳く。意識はそこにどうしようもなく集中しているのに、目がそらせない。

「……ヘクトル」

 何故、何も言ってくれない。

 束ねた髪を梳き終わった時、その手が何をするの?

 怖くて、沈黙に耐えかねてリンが鋭く声を上げる。

「ヘクトル……!」

 そっと男の手に自分の手を重ねて、動きを押しとどめた。





 長い沈黙が落ちた。









「……これ以上雨に濡れたら風邪を引く。帰るぞ」

「え? あ、うん……」

 何事もなかったように、だけどそれにしては静か過ぎる声でヘクトルは言った。髪から手を離し、今朝と同じように軽々と少女を引き上げたヘクトルは踵を返して一人で歩き出す。

「あ、ねぇ、ヘクトル……」

「先行くぞ。体よく拭けよ。寝込んでる暇はないからな」

「……ヘクトル……」

 彼からの返事はなく、リンはその場に取り残された。

 小さくなっていく背中が消えるまで動けなかった。

 彼の触れた髪が、妙に熱く感じだ。





 勝ちたい。

 願うことがそれだけだったらよかったのに。

 


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